クローブ犬は考える

The style is myself.

旅の支度 2015

あのアツかった「関西ロード」から、ちょうど1年。ふたたび、いつものファミレスに集まった。ぼくたちの「第二章」がはじまるのだ。昨年は、淡路島(淡路島アートセンター)〜高松(仏生山温泉)〜小豆島(馬木キャンプ)を巡って、カレーをつくった。なぜか四国方面にご縁があるらしく、今年もふたたび出かけることになった。

みんな、やらなければいけないことがたくさんあるのだが、うまく調整して、なんとか時間を捻出した。この1年間、いろいろな場所に出かける機会があったので、だいぶ要領もよくなってきた(はず)。「第二章」は、通算で42回目・43回目(番外編を除く)のカレーづくりになる。

そう、「平静を保ちながら、いつもどおりにすすむ(curry on)」のである。f:id:who-me:20150811105609j:plain1時間半ほど、全体の流れや宿泊場所、持ち物などについて打ち合わせをした。今年は、高松の仏生山温泉(2回目)と、高知の土佐山田に逗留する予定だ。昨年との大きなちがいは、後半の土佐山田については、並行して加藤研の「土佐山田キャンプ」(ポスターづくりのワークショップ)がおこなわれるという点だ。カレーキャラバンは、学生たちのフィールドワーク(と食事)を支える、「炊き出し」的な役割を果たすことになる。ぼくたちは高松に前ノリし、カレーをつくってから、山を越えて高知に向かうという行程だ。

https://instagram.com/p/6ezqntpZeq/

打ち合わせを終えて、木村さんのトゥインゴから、器財を降ろし、カングーに載せた。今年もまた、ロードムービーのような時間がはじまる。

去年は、別れぎわに円陣を組んで「カレーッ、キャラバーン!」と声をあげたのだが、今年は地味な解散だった。疲れているのかもしれない。もう面倒くさいと感じていたのかもしれない。きっと、天気のせいだ。そう思うことにしよう。

台風の動きが気になるが、元気に出発したい。まだまだ、夏を終わらせたくないのだ。

「ゆるさ」があれば(3)

「もっともらしい」話

カレーキャラバンの活動は、あっという間に4年目をむかえた。いまでは、だいたい月に1回のペースで、いろいろなところに出かけてカレーをつくっている。先日、上井草(東京都杉並区)でカレーをつくったのが、36回目(番外編を除く)だった。当然のことながら、出かけるたびに、まちの人との会話がある。依然として多いのは、「何のためにやっているの?」「どういう意味があるの?」という問いかけだ。とくに目的や意味は考えず、楽しいだけで続けている…つまり、これは「趣味」なのだとこたえると、さらに「わからない」と言われる。怪訝そうな顔をされることもあるので、ぼくたちも、いろいろな「こたえ」を考える。

昨年の夏に『つながるカレー』*1をまとめたのも、「こたえ」だと思うのだが、こんなふうに本の内容を紹介していただいた。*2

(中略)そんな場所と場所の隙間が往来であり、広場である。それらは通り道であることのほかに、子供の遊び場になり、夕涼みの場所になり、大道芸のステージになり、祭りの会場にもなる、つまり意味の緩さや多面性がある。彼らの行っているカレーキャラバンとは、そんな場所に大きなカレー鍋を持ち込んで、いいにおいを振りまきながら人々にカレーを振る舞うこと。すると何が起こったか。
主婦、学生、買い物客、老人、商店主、サラリーマン。いつもはそれぞれの場所で目的に合った行動をする存在だった人々の役割が一度リセットされるようだ。誰かと一緒にカレーを作って食べることで、まだ何者でもない自分、これから誰とでも関係を築ける可能性を持った自分を思い出すことができる。同じ地域 を共有している者どうしなのに、バラバラだった自分たちに気がつくのである。

この書評を読んで、「そう、そうなんです」と、嬉しくなった。ぼくたちは、これまでに、カレーを配るときの光景を何度も見てきた。道路が、(ほんのわずかな時間だけ)広場に変わる、そのようすが、この書評で語られていた。「何のため?」という問いへのひとつの「こたえ」は、カレーキャラバンの活動を「場づくり」の方法として語るというものだ。

たとえば恩田守雄さんは、その著作のなかで、「公共」ということばが曖昧につかわれていることを指摘する*3。ぼくたちは、「公共」と「私」を対比させて語ることが多いが、じつは「公」(パブリック)と「私」(プライベート)のあいだに、「共」(コモンズ)の領域があった(ある)ことを認識しておくが大切なのだ。ここで言う「共」は、地域に暮らす人びとの共益が、私益や公益よりも優先される領域のことだ。「誰のものでもあって誰のものでもない場所」ということだろうか。かつては、わかりやすい形で「共」の存在が認知されていたが、現代社会では、もはや「共」は独自の領域をもちえず、その存在そのものが見えにくくなっているという。その結果、「供出」や「互助」の精神は希薄になる。身の回りの多くのことがらを、「公」か「私」かで判別してしまうからだ。人びととのかかわりについて考える際には、「共」を取り戻す方法や態度が求められる。

f:id:who-me:20150425210016j:plain

f:id:who-me:20150503130533j:plain

いまの話をふまえて、カレーキャラバン当日の写真を眺めると、とても面白い。この写真には、「公」と「私」の境界線がくっきりと写っていることに気づくはずだ。縁石の右側は、カレーキャラバンのために(一時的に)貸してもらった駐車場スペースである。活動が4年目に入って、さまざまな器財が揃ったこともわかるだろう。テントを張って、「キャラバンメイト」と呼んでいる手製の調理台を置き、当日つかうことになった食材などを黒板に描き込んで、提灯ライトを下げる。こうして、カレーを配る準備が整う。すべてが「私」の領域に並べられている。いっぽう、縁石の左側は道路である。それほど頻繁ではないが、クルマの往来もある。スパイスの香りに誘われてやって来た人たちは、「公」の領域に立って、カレーを待っている。

f:id:who-me:20150425061405j:plain

【2015年4月11日(土)genro & cafe(上井草)】

 

でも、そうじゃない。

そして、カレーを配りはじめると、行列ができる。この日は、カフェで映画『聖者たちの食卓』の上映会を開いたこともあって、長い行列ができた。写真のとおり、列はおののずと道路に伸びてゆく。実際には1時間にも満たないほどのわずかな時間だが、道路は、ちょっとした「広場」になっていた。もちろん、クルマが来れば、みんなで両端に寄って道を譲る。このようすを見て道を通るのを断念し、迂回するクルマもあった。ぼくたちは、「私」の領域の際(きわ)でカレーを配りながら、「公」との境界線を曖昧なものにしたのだ。

f:id:who-me:20150425061407j:plain

【2015年4月11日(土)genro & cafe(上井草)】

 「もっともらしい」話だ。カレーキャラバンのリーダーである木村亜維子さんがもともと建築を専攻していて、いまは住民参加型のワークショップを学んでいる…などという話が加わると、さらに「それっぽく」なる。つまりカレーキャラバンは、現代社会で見えにくくなった「共」の領域を、一時的に取り戻すための「場づくり」の方法である。

でも、そうじゃない(のかもしれない)。先日の授業で、「共」を取り戻すという話をしたら、すぐさま石川初さんに「まとまりすぎ」と言われた。数日後、『つながるカレー』の編集でお世話になった藪崎今日子さんにもおなじ話をしたら、「なるほど」と頷きながらも「きれいすぎ」と言った。二人とも、さすがだ。少しややこしくなるが、「もっともらしい」説明を模索しながらも、同時に「でも、そうじゃない」と言いつづけることこそが、カレーキャラバンの本質なのだ。

もちろん、人びとが楽しく集う光景は、見ていて気持ちがいい。食べ物がそのきっかけになることも、体験的に知っている。なにより、みんなで食べると美味しい。だから、カレーをつくる。駐車場や公園、店の軒先でカレーをつくるだけで、「同じ地域を共有している者どうしなのに、バラバラだった自分たちに気がつく」こともある。だが、カレーの鍋をかき回しているとき、ぼくたちは「共」の領域を取り戻すなどということは考えていない。というより、その余裕がない。なにより、「もっともらしい」説明をしたとたんに抜け落ちてしまう事柄が、たくさんあるのだ。だから、カレーキャラバンは、つねに「でも、そうじゃない」と言いながら活動を続ける。説明を求められれば、「もっともらしい」話をすることもある。もちろんそれは、こじつけでも、その場しのぎの説明でもない。「何のためにやっているの?」「どういう意味があるの?」という問いかけからはじまるコミュニケーションには、「もっともらしい」話は欠かせない。その説明を考えること自体が、ぼくたちにとって重要なプロセスだ。

そして、「美味そうだね」「それ辛いの?」というひと言ではじまるなら、おそらく、ぼくたちのコミュニケーションはちがった経路をたどる。だからこそ、ぼくたちはことばを丁寧にえらびたいと思う。「よくわからない」と言われることは辛い。「何のためにやっているの?」「どんな意味があるの?」と聞かれると、「もっともらしさ」を求めたくなる。だが、ぼくたちが向き合っているのは、何かのためにあって、(事前に)意味がわかっていることばかりではない。目的がわからないからこそ、旅はつづく。意味は、あらかじめどこかに「ある」のではなく、旅の途中で見つける(見つかる)ものだ。

f:id:who-me:20150411182205j:plain

*1:加藤文俊・木村健世・木村亜維子(2014)『つながるカレー:コミュニケーションを「味わう」場所をつくる』(フィルムアート社)

*2:往来堂書店 EVERGREEN BOOKS: つながるカレー コミュニケーションを「味わう」場所をつくる -往来堂書店

*3:参考:恩田守雄(2008)『共助の地域づくり:「公共社会学」の視点』(学文社)|恩田守雄(2006)『互助社会論』(世界思想社)

四つ葉のクローバー

2015年4月11日(土)

もう、ずいぶん前に出会っていた。そのことに気づくのに、20年以上かかった。

36回目(番外編を除く)のカレーキャラバンは、上井草(東京都杉並区)へ。「genro & cafe」の軒先をお借りして、カレーをつくることになった。株立(かぶだち)の緑に囲まれた、とても素敵な場所だ。カフェの隣には、ちいさな文具店がある。オーナーの千葉皓史さん(まちづくり上井草 代表)とは、昨年の3月、ねりままちづくりセンターが主催するイベントでご一緒した。株立のあるまち並みや、丸い屋根のカフェは、そのときにスライドで紹介してもらったのだが、行くのは初めてだ。雨のおかげで、緑が引き立つ。

https://instagram.com/p/1Y-rVEJZfy/

文具店をのぞくと、スタンプがたくさん並んでいた。アクリルの台がついた、あのスタンプだ。大きな文具店でもよく見かけるので、きっと、どこかで目にしたことがあるはずだ。シールやポストカードなどもある。ぼくも、スタンプをいくつか持っている。(まるでじぶんだけの)落款印のような気分で、手紙やポストカードに絵を添えて送ることができる。季節を感じさせる図柄は、どれもあたたかい。

ぼくは、「あぁ、あれをここでも扱っているのか」と思ったのだが、しみじみとパッケージを見たら「GENRO」と記されている。「ここでも扱っている」のではなく、「ここでつくられている」のだった。あのスタンプは、千葉さんの手によるものだったことを知って、本当に驚いた。20年以上も前に、ぼくは、スタンプを介して千葉さんと出会っていた。いままで、きちんとパッケージを見ていなかったことを反省した。つまり、(少し大げさに言えば)ぼくは「聖地」に来ていたのだ。あのスタンプに、少しでもいとおしさを感じる人は、「聖地」を目指して出かけたほうがいい。「作り手」の顔や佇まいとモノとがむすばれると、とたんに、いままでとちがった風景が広がる。これから、「GENRO」のスタンプを手にするたびに、ぼくは、株立の緑とカフェとカレーキャラバンのことを思い出すだろう。雨が上がって、ときおり陽が差した春の一日が目に浮かぶにちがいない。

https://instagram.com/p/1ZGqE5pZex/

おそらく「GENRO」のスタンプは、3つ4つは持っているはずだ。カレーをつくった翌朝、じぶんの部屋が整理整頓されていないことを悔やみながら、ごそごそと机の引き出しをあさった。よかった、ひとつ見つかった。

発見のよろこびを象徴するかのように、まず出てきたのは、四つ葉のクローバーのスタンプだった。できすぎた話だ。いつ、どこで買ったのかは思い出せない。残りのスタンプもさがして、きちんと箱に入れておこう。そして、あらたにスタンプを追加するときは、大きな文具店ではなく、のんびりと上井草まで出かけることにしよう。カフェでコーヒーを飲みながら、誰かに手紙を書き、買ったばかりのスタンプを押すのだ。

階段に座って、食べよう。

「ふつうの暮らしを調査して、どこが面白いんだ」と、彼は話しかけてきた。どうやら、ぼくたちが人びとの暮らしを調査しているのが気に入らないのだ。「べつに取り立ててめずらしい生活をしているわけじゃないよ」と言う。偏屈な男につかまってしまった、と思った。気に入らないというより、「解せない」ということらしい。

団地が調査対象なら、たとえば「孤独死」や「空き家」の問題などを取り扱ったほうがいい。「ふつうの暮らし」などと呑気なことを言って、何の役に立つのかわからない。

いや、そのような「問題」は、すでに多くの人が取り扱っているはずです。だからこそ、日常生活に目を向けたいと説明しても、一向に通じない。さまざまな「問題」に向き合う前に(向き合うために)、まずは現場のようすを直接感じることが大切なのだ。ひとしきりしゃべったので、これでようやく解放されると思っていたら、急に話題が変わった。

「3時に来てくださいと言われたから来たんだけど、まだ?」

ぼくたちは、その日、広場でカレーをつくっていた。3時ごろから配る予定で、いよいよこれから、というタイミングだった。もう間もなくです、と伝えたのだが、こんどは時間になっても配りはじめないことに苛立っている。そして、ふたたび、ぼくたちのフィールドワークは「わからない」と言い続け、そのうち「じゃあ、これはドキュメンタリーのようなものかい」と言った。ある程度の時間をかけて現場に通い、詳細な記述を試みるという点では、たしかに「ドキュメンタリーのようなもの」だ。「お年寄りの一人暮らし」や「マイホームの夢」といったテーマになるかどうかは、わからない。

カレーの前に行列ができはじめたのを見て、彼も列の後方に向かった。この偏屈な男のおかげで、ぼくはカレーの完成に立ち会うことも、そのようすを写真に撮ることもできなかった。

団地の広場は開放的だ。一部が階段状になっていて、そのすぐそばでカレーをつくった。段差はあまりないが、器財をセッティングするとき、階段に腰を下ろして食べるようすを想い浮かべていた。カレーを受け取った人は、ぼくたちの期待どおり、階段に座ってカレーを食べはじめた。イベントで使われることはあると思うが、多くの場合、この階段は通路でしかない。駅とのあいだにあって、ふだんは通り過ぎるだけの広場が、ほんのわずかな時間、人びとが集い、(カレーを食べながら)語らう場所に変わった。そのことが、愉快だった。階段そのものにはいっさい手を加えていないのに、立ち上るスパイスの香りが人びとを集めて、あたらしい広場の情景をつくった。階段に座って眺める広場は、いつもとずいぶんちがっていたはずだ。

f:id:who-me:20150129114006j:plain

男は、階段の端のほうでカレーを食べていた。みんなが座って食べている、広場の風景の一部になっていた。ふと、男は孤独なのだと思った。目の前で「わからない」を連呼されていたときには、そんなことを感じることもなく、ちょっと面倒な存在という印象だった。その彼が、黙って一人でカレーを食べている。彼が孤独に見えたのは、まさに、彼じしんが「孤独死」や「空き家」といったことばをぼくに投げかけたからだ。

彼は、誰かと話をしたかったのではないか。日曜日の午後、ぼくたちが階下の広場で「騒ぎ」を起こさなければ、ずっと一人で部屋にこもっていたのかもしれない。隣に行って一緒にカレーを食べようか、と思った。だがきっと、「オレはべつに寂しくない」「一人にしておいてくれ」と言われるにちがいない。ぼくは、遠目に彼のことを見ていた。カレーは、美味しかったのだろうか。

「ふつう」を知ることは難しい。そして、「ふつう」に触れることは面白い。じつは、人びとの個性に近づけば近づくほど、「ふつう」として語ることなどとうてい無理だということ、どの人の暮らしもユニークで「ふつうではない」ことに気づくのだ。