クローブ犬は考える

The style is myself.

「ゆるさ」があれば(10)

テイクアウトで目覚める

まもなく、9年目が終わろうとしている。事情が事情なのでしかたないのだが、2020年は一度も鍋を囲むことができなかった。オンラインでカレーパーティー(それぞれがカレーを用意して、画面越しにおしゃべりしながらランチを食べる)を開いたこと、そして「100+20人の東京展(2019-2020 South編)」という展示でこれまでに東京でおこなったカレーキャラバンのようすを紹介する機会があったこと(→ カレーキャラバンがめぐった東京 - クローブ犬は考える)。2020年の活動は、このくらいで終わってしまった。この文章を書いているいまも、「緊急事態宣言」が発出されている。春めいてきたので、少しずつでも戻れるように、外に出かけることができるように、前向きに考えたい。

f:id:who-me:20210224231556p:plain
f:id:who-me:20210224231543p:plain

2020年7月24日(金)|カレーキャラバン オンライン用背景(by リーダー)

家で過ごす時間が長くなって、テイクアウトで食事を調達する機会も増えた。せっかくなので、とくにランチは近所であれこれとテイクアウトメニューを試すようにしている。厳しい状況のなか、いろいろな店が工夫をしながらテイクアウトのあり方を探っているようだ。全般的にはちょっと割高な感じもするが、わずかながらも支援しようという気持ちになっている。

つい最近、「TOKYO MIX CURRY」を試してみた。偶然、店のチラシからウェブにたどり着いたのだが、なかなかよくできている(と思った)。まずスマホに専用のアプリをダウンロードし、そのアプリをつかって注文する(アプリをつかわないと発注できない)。基本はルーとごはんの量、トッピングをえらぶという感じ(あとでウェブの記事を読んだら、「サブウェイ」がヒントになっていると書いてあった)。おすすめの組み合わせもいくつかあるので、それをえらんでから量を調整したりトッピングを加えたり(なくしたり)すればいい。受け取りたい店舗と時刻を指定し、クレジットカードで決済する。そこまで、ムダのない流れだ。
注文してからスマホの画面を眺めていると、少しずつステータス表示が変わっていった。注文が通ったという状態から調理中に変わり、準備ができて受け取り可能という表示に。(実際にはそのようすを確認することはできないわけだが)あらかじめ指定した時刻に合わせて調理が開始され、できたて受け取ることができるという感覚が、画面をとおして伝わってくる。

指定した時刻に店についた。店といっても、ランチタイムの数時間だけ「間借り」をしている店舗だ。表には「TOKYO MIX CURRY」の看板が立っている。夜は鉄板焼きの店(ワインバー)だが、昼間はテイクアウトとデリバリー専門のカレーの店になるというわけだ。店に入ると、ぼくが注文したカレーをちょうど包んでいるところだった。この「間借り」は、入り口のわずかなスペースとテーブル、イスくらいのもので、厨房をつかっているわけではなかった。加熱・保温用のヒーターの上に寸胴がのっていて、傍らにはトッピングの具材が入った容器が並んでいる(まさに「サブウェイ」っぽい感じ)。注文はすべてアプリ経由で届くので、そのオーダー(カスタマイズ)どおりにテイクアウト用の容器によそって、客が来るのを待つという流れだ。

f:id:who-me:20210215122030j:plain

取材をしたわけではないので、勝手な理解で書いているが、おそらくは調理は別のキッチンでおこなわれていて、現場ではそれを加熱して注文に応じて盛り付ける。キッチンカーと同じような感じだ。キッチンカーにかかわる手続きや、維持・管理、駐車スペースの確保などを考えれば、この「間借り」のやり方はスマートだ。買うほうも、列に並んで待つこともない。
受け取るさいには食べ方の説明があって、割引のクーポンを渡された。初めてだったので「たっぷりお野菜」をちょっとだけアレンジして注文した。思っていたよりボリュームがあって、美味しかった。屋号どおり「ミックス」して食べるカレーなので、トッピングの組み合わせを考えたり、家にあるスパイスで「味変(あじへん)」したり、いろいろな楽しみ方がありそうだ。

テイクアウトのスタイルとして、なかなかよく設計されていると関心しつつ、それよりも、「間借り」のスペースで寸胴からカレーをよそっている光景を見て、懐かしさがこみ上げてきた。まちなかに仮設のキッチンをつくって、カレーをつくる。これこそ「カレーキャラバン」のはじまりだったのだ。9年前のあの日、墨田区の空き店舗で鍋を炊いた。その情景が思い出されて、目覚めた。2019年の9月に軽井沢でカレーをつくってから、「旅」の器財は箱にしまったままだ。

 

旅は道づれ

たんにテイクアウトのお試しくらいの気持ちだったが、「TOKYO MIX CURRY」の体験で、ムズムズと何かが覚醒するようだった。もちろん、さすがに「フルバージョン」を再開することはできない。
「カレーキャラバン」の楽しみは、クルマに道具を載せるところからはじまる。ドライブして(ときには数百キロ)、逗留地に着いたら荷物を降ろして設営し、買い出しに行く。まちかどで調理をしていると人が近づいてくる。一緒におしゃべりをしながら野菜を刻み、鍋を囲んでまったりと過ごす。カレーができる頃には、さらに人が集まってきて、みんなに配って食べながら日が暮れる。撤収して、あれこれとクルマで話しながら帰る。この一連の流れが、やめずに(やめる理由が見つからずに)続けてきた「フルバージョン」だ。
あらためてふり返ると、「カレーキャラバン」は「密」な関係を前提に成り立ってきた。というより、スパイスの力を借りて、「疎」だったところを「密」に変える活動だといえるかもしれない。いまの状況で、できることは何か。それを考えることは、「カレーキャラバン」の本質をとらえなおすことにつながるはずだ。

まず、「カレーキャラバン」が面白いのは、仮設であることと無縁ではない。これまでの80回をこえる「旅」は、まさに「間借り」体験の積み重ねだった。駐車場、広場、公園、店の軒先など、いろいろな場所を借りてカレーをつくった。それぞれの場所でのエピソードが、いくつも記憶に残っている。くり返しているうちに、設営と撤収にも慣れてきた。上手に片づければ、さほど負担を感じることなく次につながることもわかった。つまり、「間借り」を前提とする活動に求められるのはモビリティ(移動性)なのだ。そのために、道具を厳選したり現地調達したり、いろいろな工夫もできるようになった。

もうひとつ、ぼくたちの活動を成り立たせているのは、分け合う姿勢だ。大きな鍋でつくったカレーを、大勢で分け合う。一つの鍋をみんなで囲んで、(スパイスの香りがする)同じ空気を吸い込み、同じ地面に立つ。つまりそれは、一緒に過ごすための場所を分け合うことだといえる。もちろん同じ場所に「いる」ことは、時間を共にするということだ。

では、どのようにして「カレーキャラバン」の活動を再開すればよいのだろうか。具体的に考えるときに思い浮かぶのは、「一緒に鍋を囲むのは誰か」という問いだ。これまでは、行きずりの人もふくめ、誰でもカレーづくりに加わることができるようなやり方をつくってきた。準備だけ手伝って、カレーができあがる頃にいなくなる人もいれば、逆に、カレーを配るタイミングでいきなり現れる人もいた。出入りは自由、いちいち挨拶することも、名前を聞くことさえない。そんな関係で、一つの鍋を囲んでいた。

f:id:who-me:20190914152803j:plain2019年9月14日(土)|カレーキャラバン(軽井沢編)

いまでこそCOVID-19の騒ぎで動きが制限されているが、そもそも「カレーキャラバン」は共同で調理するという活動なので、気を遣うべきことは多い。リーダーもぼくも「食品衛生責任者」の講習を受けて、食中毒やアレルギーのことについて勉強した。手伝ってくれる人には、手指の消毒をお願いする。いろいろなことに注意しながら、調理にはじまって食べるところまで、みんなが「道づれ」になるのが基本だ。もちろん、何かあったときに備えて、参加者に誓約書を書いてもらうわけではない。「自己責任」ということばで対応するつもりもない。
この騒ぎが落ち着いたら、カレーをつくろう。まずは、ごく身近なところから。〈甘える=甘えられる〉〈許す=許される〉関係が成り立つ(少なくとも、そう思わせる)くらいの「近い」ところから。
黙ってカレーをつくり、黙って食べる。それでもよいはずだ。まずは、もう一度「旅」を実感すること、そして時間と場所を分け合う姿勢を整えることだ。

カレーキャラバンがめぐった東京

ひととであい まちでつくる 旅するカレー  これまでに、全国の80か所以上をめぐりながら、出かけた先の食材をつかってカレーをつくった。東京都では、16回実施している。*1

調理器具とスパイスをもって、旅に出る。出かけた先で食材を買い、店の軒先や駐車場、空き地などを借りて、鍋を炊く。通りすがりの人に野菜を刻んでもらったり、スパイスの調合を手伝ってもらったり。話をしているあいだに、暮らしのこと、まちのことがわかってくる。もちろん、いきなり「よそ者」が現れてカレーをつくりはじめるのだから、訝しげに遠くから見ている人もいる。

大きな鍋でカレーを煮込んでいると、やがてスパイスの香りが漂いはじめる。カレーができあがるころには、どこからともなく人が集まってくる。遠くから見ていた人も、いつの間にか列に並んでいる。一人ひとりにカレーのお皿を手渡す。立ったまま食べる人もいれば、辺りにちょうどいい場所を見つけて腰かける人もいて、わずかな時間だが、路上がみんなのものになる。賑やかで楽しいひとときが終わると、撤収して旅を終える。

アートプロジェクトの一環で、墨田区の空き店舗でカレーをつくったことがきっかけになって、カレーキャラバンが動きはじめた。8年でおよそ80回。だいたい月に1回というペースで続けてきた。メンバーは二人ともカレーは大好きだが、調理のプロではない。素朴に、コミュニケーションを「味わう」ために、この旅を楽しんできたのだ。カレーキャラバンをとおして、多くのまちを知ることができた。友だちも増えた。のんびりと、まずは100回を目指して続けようと話している。

f:id:who-me:20190914101954j:plain
f:id:who-me:20190914132543j:plain
f:id:who-me:20190914152803j:plain
f:id:who-me:20190914161430j:plain

2019年9月14日(土)|長野県北佐久郡軽井沢町

昨年、夏の終わりに軽井沢でカレーをつくった。その後、仕事が忙しくなってドタバタしているうちに年が明け、まもなく新型コロナウイルスがやって来た。そのせいで、半年間、カレーキャラバンは休眠状態である。少しずつ暖かくなって、「外」に出かけたくなる時分に“ステイホーム”だと告げられて、とくにこの数か月は「内(家)」で過ごしている。仕事は、オンラインになった。

そもそも、カレーキャラバンは「密」な関係によって成り立っている。一緒におしゃべりをしながら鍋をかき混ぜる。大きな鍋から一つひとつのお皿にカレーをよそい、身体を寄せ合ってほおばる。

もちろん、カレーキャラバンだけではなく、フィールドワークも同じだ。誰かと一緒にまちを歩く。人と出会う。ことばを交わし、一緒にテーブルを囲む。沈黙しながら、距離を置いたままで、まちや人びとの暮らしを理解することなどできるはずがない。これまで、特別なことをしているつもりはなかった。あたりまえ過ぎて疑うことのなかったフィールドワークへの想いが、あふれている。(文・加藤文俊)

f:id:who-me:20200723164635j:plain
100+20人の東京展(2019-2020 South編)
人・建築・都市を記憶する レンズ付フィルムによる写真展

  • 日時:2020年7月9日(木)〜9月17日(木) *開館時間は要確認
  • 会場:GalleryA4(〒136-0075 東京都江東区新砂1-1-1 竹中工務店東京本店1F)

*1:このテキストは、「100+20人の東京」展のパネル用に書いたものです。

カレーとともにあらんことを。

フォースシーズンがはじまります。

7年目をむかえたカレーキャラバン。“フォースシーズン”は、旅をしながら場づくりの実践をおこなっている人やグループとともに、カレーづくりをすすめてみたいと考えています。たとえばアカペラ、あるいはドキュメンタリー映画。もちろん、ほかにもたくさん可能性があります。結局のところ、場づくりというのはわりと単純で、じぶんたちの好きな〈モノ・コト〉を集めて、好きな人に声をかければ実現するような気もします。あとは、よろこんで時間を出し合うこと。
これまでの経験とつながりを辿りながら、これからも、いろいろなところに出没します。つぎは、あなたのまちで。 

  • 5月4日(金)岩手県陸前高田市
  • 5月6日(日)岩手県奥州市

f:id:who-me:20180502221523p:plain

「ゆるさ」があれば(9)

「社会実験」は窮屈だ

2017年11月、カレーキャラバンは、ついに 70回目(番外編を除く)をむかえた。秋はイベントが多くて、慌ただしく準備をしていたためか、記念すべき70回目であることをすっかり忘れていた。活動をはじめてから6年目の後半なので、ほぼ1か月に1回のペースですすんできたことになる。じぶんたちのことながら、よくここまで続いたものだと思う。

70回目は、横浜の大通り公園(横浜市中区)にテントを張ってカレーをつくった。「実証実験」という位置づけだ。ぼくたちは、公園の一角を使わせてもらう立場なので、「実証実験」だと言われれば、その文脈にじぶんたちの活動を位置づけるしかない。だが、「実証実験」というのは、いささか大仰な感じがする。ふだんは、もっと気楽なのだ。今回は、「公共空間の活性化」のための「実証実験」で、とくに「飲食の提供」や「子供向けの遊び」といったテーマが設定されている。こうしてカレーキャラバンは、地域活性化に資する活動として語られることになる。

f:id:who-me:20171103150622j:plain

2017年11月3日(金・祝)|「実証実験」によって、いつもとちがう公園になる。

「実証実験」(あるいは「社会実験」と呼ばれることも多い)は、公園などの公共空間を、ふだんとはちがう使い方をするための仕組みだ。多くの場合、公園で「やってはいけないこと」が決められている。場所によっては、長大なリストがある。「社会実験」は、その「やってはいけないこと」のいくつかを緩和する試みなのだ。つまり、(限定的ではあっても)「社会実験」という文脈があれば、さまざまな活動が許される。
カレーキャラバンは、これまでにも、何度か公園で実施したことがある。そして、公園や公共の広場を利用するさいには、「ふさわしい」理由が必要なことを体験をとおして学んできた。もちろん「公共空間」のあり方を考えることは重要なのだが、「実証実験」や「社会実験」だと言いながらカレーをつくると、どうも窮屈なのだ。なんだか居心地が悪い。ぼくたちの「ゆるさ」が、少なからず損なわれるような気持ちになるのだ。

その理由を、あらためて考えてみた。そもそも「実証実験」では、文字どおり(何かを)「実証」することが要求される。つまり、「実験」による「効果」や「影響」の評価が求められるのだ。大抵、アンケート調査をおこなって、感想や満足度をたずねる。アンケート調査の結果を集計して、一連の試みが「公共空間の活性化」に貢献しうるのかどうかを判断するのだ。公園を訪れる人が増えていたり、ふだんとはちがった属性の人が公園に来ていたりすることがわかると、食べものや子どもの遊び場を提供したことが、こうした変化をもたらすきっかけになったと考えることができる。そして、「公共空間の活性化」に役立ちうる活動として位置づけられる。

だが、カレーキャラバンの活動にかぎって言えば、とくに「実証」すべきことはないのかもしれない。カレー(おそらく誰でも知っている)のおかげで、余計な挨拶などせずに会話がはじまるし、鍋をかき回していれば、自然に道行く人が寄ってくる。なにより、わいわいと誰かと一緒につくるのも食べるのも楽しい。ぼくたちは、これを「実証」したくてやっているわけではない。きれいにたいらげたあとの紙皿と、空になった鍋を見れば、みんなの満足度(満腹度)は伝わってくる。「じゃあ、また」と言いながら笑顔で別れれば、もうしばらく続けてみようと思う。ぼくたちの「ゆるい」活動には、こうした体験があればじゅうぶんなのだ。
利用者の人数や属性、滞留時間、回遊行動、売り上げなど、さまざまな指標からわかることは何か。言うまでもなく、公園で過ごすという体験は、アンケート調査ではとらえきれない。偶然の出会いや予期せぬ展開、人びとと交わしたことば。ぼくたちの「実験」は、つねにコミュニケーションのなかにある。

 

イベントからハプニングへ

「実証実験」は、イベントなのだ。それは、指定された場所で、決められた期間だけ、さまざまな制約が緩和される「特別な日」だ。その意味では、「実証実験」は非日常的な時間と空間を整備する試みだと言えるだろう。2日間だけ、ふだんは目にすることのないイスやテーブルが並べられる。キッチンカーも園内に乗り入れる。芝生では子どものための体験教室が開かれる。一連の企画は、タイムテーブルやマップにまとめられている。

もちろん理由があってのことだが、「実証実験」のプログラムは整然としている。ぼくたちのカレーづくりも、定位置が決められていた。(それほど気にはならないが)つねにスタッフの視線を感じながら、設営を行い、カレーづくりにとりかかった。すぐに「実証実験」であることなど忘れて、ふだんどおりの「ゆるい」活動になったが、撤収の時間が決められていたので、この日はいつもより時計を気にすることが多かった。
イベント慣れしてくると、知らず知らずのうちに形式に目が行くようになる。事前に告知されているかどうか、時間どおりに進行するかどうか。手続きや段取りにムダはないか、採算はだいじょうぶか。こういうことが気になるとしたら、それはおそらく「イベント症候群」とも言うべき「症状」の表れだ。

f:id:who-me:20171103150134j:plain

カレーキャラバンは、イベントではなく、ささやかなハプニングでありたいと考えている。周到に計画され、機械的に進行することが求められるイベントなら、プロにまかせておけばいい。ぼくたちは、(大いなる)アマチュアなのだ(自負を込めて)。
もちろんイベント自体は悪くないが、つねに「あたりまえ」を問い直すことは大切だ。一人ひとりの生活者は個性にあふれていて、(良くも悪くも)わがままで気まぐれだ。人びとが、お互いの時間を出し合う。あるいは偶然に通りがかる。ほんのひとときでも、同じ場所に集う。それが、カレーキャラバンという体験をかたどる。
現実的な制約はあるにせよ、そもそも公園や公共空間というのは、ぼくたちの気まぐれなふるまいを受け容れる寛容な場所のはずだ。人びとの動きをきめ細かく決める、タイムテーブルを設計する必要はない。むしろ、時が経つのを忘れる場所であってほしい。

ときどき、「もっと早めに告知してほしい」「時間や場所などの情報がわかりづらい」といった声が寄せられることがある。せっかく関心を持っていただいているのに、申し訳ないという気持ちになる。そのいっぽうで、「わからない」ことからはじめるのも悪くないと思う。何でもウェブに載っていると考えるのも、もったいない。すぐに「わかりやすさ」を求めてしまうのは、きっと、イベントに慣れすぎているからなのだ。ことばを交わし、カレーづくりの現場に「ともに居る」ことを実感することがなければ、ハプニングの面白さを味わうことができない。

ビデオ:大橋香奈(http://yutakana.org/

「実証」することが必要以上に強調されると、本来の「実験」の可能性が制限されてしまう。「実験」は、いつでも失敗に寛容なはずだ。何かを確認・実証するための「実験」ではなく、発見・学びを促すための「実験」こそが魅力的だ。
もちろん、「実証実験」の成果が、「公共空間の活性化」をもたらす具体的なプランに活かされる可能性はある。だが、じつはぼくたちを惹きつけているのは、「実験」をきっかけに、まだ見ぬ現実を先取りできるからではないだろうか。「実験」は、具体的な課題解決を目指すとはかぎらず、現実に先行する〈ものがたり〉をいち早く体験する機会として再認識することも大切だろう。
それによって、ぼくたちは「効果」や「影響」を生み出すという使命感やプレッシャーから解放され、さまざまな可能性の範囲を探究する作業に挑むことができる。ぼくたちが問うべきなのは、こうした冒険的な試みを評価する(もはや評価ということばや営み自体が不要なのかもしれないが)方法や態度に関する議論が圧倒的に足りないという点だ。🐸*1

*1:参考:加藤文俊(2017)「ラボラトリー」とデザイン:問題解決から仮説生成へ『SFC Journal』第17巻第1号 特集:Design X*X Design: 未知の分野における新たなデザインの理論・方法の提案とその実践(pp. 110-130)

「ゆるさ」があれば(8)

きちんとした設備

芋煮の余韻(くわしくは、「ゆるさ」があれば(7)[link] を参照)に浸りつつ、つぎの活動をむかえた。山形に出かけてからわずか1週間後、こんどは福井でカレーをつくることになった。これまでにも何度かあったように、加藤研の「キャンプ」(フィールドワーク実習)に合流するかたちでの実施だ。実習に参加する学生から見ると、2泊3日のプログラムに組み込まれた「2日目の晩ごはん」がカレーだという位置づけになる。
下見の段階で、福井では「路上」での実施は難しいということがわかった。そして、いろいろと検討した結果、駅にほど近いところにあるキッチンを借りることになった。それは、「ガスのアンテナショップ」ともいうべき場所で、料理教室をはじめ、さまざまなイベントが実施されているレンタルスペースだ。駅前の大規模な再開発計画があるために、今年度いっぱいで閉じてしまうとのことだが、ガスを使う活動であるならば無料で利用できると聞いて、この場所を使ってみることにした。幸いなことに、予定していた日の午後は空いていたので、さっそく手続きをした。

「アンテナショップ」であるから、とにかくピカピカだ。一番奥にシンクとガス台があって、大きな調理台が設えてある。ちょっとした「料理番組」を収録するためのスタジオのようにも見える。もちろん、基本的な調理器具は、ひととおり揃っている。なんともありがたいことだ。今回は、さすがに遠いのでクルマで行くのを断念した。事前に鍋やスパイスなど、最低限必要だと思われるモノを宅急便で送り、あとは、この施設に常備されている器財でなんとかなるだろうと思った。実際に、この快適で機能的なキッチンのおかげで、カレーづくりは順調にすすんだ。調理台は広いし、火加減の調整も楽だ。

f:id:who-me:20210224233142j:plain料理番組っぽい。 #カレーキャラバン #サードシーズン #currycaravan

 ぼくたちは、通りに面したガラス戸を開け放して、少しでも「外」とのつながりをつくろうとしていた。多少はスパイスの香りが辺りに漂っていたのだろうか。何人かの人は、ちょっと足をとめた。だが、少し奥まったところで鍋を炊いているようすが見えたとしても、調理台のほうまで歩みよってくることはなかった。単純なことながら、まちの日常的な往来と離れすぎていたのだろう。
じつは、この日は(実質的には)二人でカレーをつくらなければならなかったのだが、きちんとした設備のおかげで、ほぼ予定どおりにすすんだ。そして、カレーは美味しくできあがった。多少の呼び込みもしたが、カレーを配っているということがわかると、道ゆく人もなかに入ってきた。カレーを食べるときには、いつものように、賑やかな情景が生まれ、いつものように、楽しいひとときを過ごした。

だが、何かちがう。片づけをしながら、ぼくは、ちょっとした「違和感」をおぼえていた。あとで話をしたら、どうやら亜維子さんも似たような感覚だったようだ。準備から調理、そしてみんなで一緒に食べて、片づけるところまで、一連の流れは滞りがなかった。むしろ、いつもよりすみやかに進行した。だが、カレーをつくっている最中に鍋をのぞき込まれる場面は、ほとんどなかった。手際の悪いぼくたちにちょっかいを出したり、他愛のないやりとりで手が止まったりすることはなかった。ぼくたちは、カウンター越しに(ちょっと離れたところから)視線を感じながら、ひたすらカレーづくりに集中していた。というより、集中せざるをえなかった。それは、今回のセッティングがもたらしたのではないかと思う。

 

「どちらでもない場所」

きっと、設備が立派すぎたのだ。ピカピカの施設を無料で使っておきながら、ずいぶんわがままな物言いに聞こえてしまうにちがいない。だが、この設えによって、ぼくたちは、いとも簡単にカレーを「つくる人」になってしまった。カウンター越しに向き合うのは、「食べる人」だ。日ごろから気づいていたはずのことなのだが、今回は「つくる人」と「食べる人」との境界が際立ってしまった。ぼくたちは、カウンターの内側に立ち、鍋をかき回している。スパイスの香りに誘われて、道ゆく誰かが入ってきたとしても、依然としてカウンターに隔てられている。だから、近づいても「向こう側」と「こちら側」が溶け合うことはない。これまでに、たびたび〈公・共・私〉という図式で語ってきた [link] が、じつは、カレーキャラバンの面白さは、「向こう側」と「こちら側」が曖昧になる点にある。そのことに、あらためて気づいた。わずか80センチほどの距離であっても、固く頑丈なカウンターが「あいだ」に横たわっている。その境界は、越えるのが難しい。

ほとんどの学生たちは、カレーを食べると、そそくさと帰ってしまった。実習のプログラムでは「2日目の晩ごはん」になっていたし、フィールドワークの成果をまとめる作業のことを考えて、急いで食べて宿に戻ったのだろう。「ありがとうございました」さえ言わずに帰ってしまった学生たちを見て、いささかやるせない気分になった。少しでも片づけを手伝うくらいのことは思いつかないのだろうか。
もちろん、「ありがとう」くらいはごく自然に言えるほうがいいのだが、それもカウンターの存在と無関係ではないのかもしれない。あの場所で、ぼくたちがカウンターの内側に留まっているかぎり、つき合い方は変わらない。もし、カウンターの「外」に出ていたら、往来に少しでも近づこうとしていたら、ちがった光景に出会っていたようにも思う。

ふと、梨木香歩の『ぐるりのこと』を思い出した。そう、「向こう」でも「こちら」でもない「どちらでもない場所」こそが、人びとのコミュニケーションに対する(心理的な)「構え」を解くのだ。なにより、この「ガスのアンテナショップ」をえらんだ時点で、カウンターの存在についてもっと想像力をはたらかせているべきだった。「向こう」と「こちら」の距離(距離感)が、一目でわかるようなかたちで物理的に調整されてしまうと、ぼくたちは、きちんとカレーをつくらざるをえなくなる。つまり、カレーづくりの行程を「すべて」把握しなければならない。ぼくたちが、ふだん「違和感」を抱くことなく、楽しく過ごしているのは「半端」な場所だったのだ。それは、移ろいやすい場所だ。「どちらでもない場所」でつくられたカレーは、「誰のものでもない」ということになる。だからこそ、無料で配る。「すべて」を引き受けていないのだから、値段のつけようがないのだ。

f:id:who-me:20171014175050j:plain

Video: 大橋香奈(http://yutakana.org/

いろいろな事情があって、今回は「ガスのアンテナショップ」でカレーをつくったが、やはりカレーキャラバンは「外」がいいのかもしれない。それがかなわない場合にも、できるかぎり人びとの往来に近づいたほうがよさそうだ。もちろん、「外」に向かうと、とたんにカレーづくりは面倒になる。ときには寒さや強風のおかげで、鍋がいっこうに熱くならないこともある。水場が遠くて、ポリタンクを持って水を汲みに行かなければならないこともあれば、陽が落ちてから、クルマのヘッドライトで辺りを照らしながら撤収することもある。だが、蛍光灯の下で無風状態で調理することは、ぼくたちが「すべて」を把握しなければならない環境へ近づくことになる。条件が整えば整うほど、ぼくたちは「生産者」のようにふるまうようになる。そのことが、行きずりの人びとを「消費者」に変えてしまう。

「すべてを引き受けない」ことは、ちょっと大げさに言えば、ひとつの戦略だ。「つくる人」にも「食べる人」にもならず、「どちらでもない(どちらでもある)」立場でかかわること、かかわり続けることが、ぼくたちが標榜する場づくりの方向性だ。🐫

ぐるりのこと

ぐるりのこと