「社会実験」は窮屈だ
2017年11月、カレーキャラバンは、ついに 70回目(番外編を除く)をむかえた。秋はイベントが多くて、慌ただしく準備をしていたためか、記念すべき70回目であることをすっかり忘れていた。活動をはじめてから6年目の後半なので、ほぼ1か月に1回のペースですすんできたことになる。じぶんたちのことながら、よくここまで続いたものだと思う。
70回目は、横浜の大通り公園(横浜市中区)にテントを張ってカレーをつくった。「実証実験」という位置づけだ。ぼくたちは、公園の一角を使わせてもらう立場なので、「実証実験」だと言われれば、その文脈にじぶんたちの活動を位置づけるしかない。だが、「実証実験」というのは、いささか大仰な感じがする。ふだんは、もっと気楽なのだ。今回は、「公共空間の活性化」のための「実証実験」で、とくに「飲食の提供」や「子供向けの遊び」といったテーマが設定されている。こうしてカレーキャラバンは、地域活性化に資する活動として語られることになる。
2017年11月3日(金・祝)|「実証実験」によって、いつもとちがう公園になる。
「実証実験」(あるいは「社会実験」と呼ばれることも多い)は、公園などの公共空間を、ふだんとはちがう使い方をするための仕組みだ。多くの場合、公園で「やってはいけないこと」が決められている。場所によっては、長大なリストがある。「社会実験」は、その「やってはいけないこと」のいくつかを緩和する試みなのだ。つまり、(限定的ではあっても)「社会実験」という文脈があれば、さまざまな活動が許される。
カレーキャラバンは、これまでにも、何度か公園で実施したことがある。そして、公園や公共の広場を利用するさいには、「ふさわしい」理由が必要なことを体験をとおして学んできた。もちろん「公共空間」のあり方を考えることは重要なのだが、「実証実験」や「社会実験」だと言いながらカレーをつくると、どうも窮屈なのだ。なんだか居心地が悪い。ぼくたちの「ゆるさ」が、少なからず損なわれるような気持ちになるのだ。
その理由を、あらためて考えてみた。そもそも「実証実験」では、文字どおり(何かを)「実証」することが要求される。つまり、「実験」による「効果」や「影響」の評価が求められるのだ。大抵、アンケート調査をおこなって、感想や満足度をたずねる。アンケート調査の結果を集計して、一連の試みが「公共空間の活性化」に貢献しうるのかどうかを判断するのだ。公園を訪れる人が増えていたり、ふだんとはちがった属性の人が公園に来ていたりすることがわかると、食べものや子どもの遊び場を提供したことが、こうした変化をもたらすきっかけになったと考えることができる。そして、「公共空間の活性化」に役立ちうる活動として位置づけられる。
だが、カレーキャラバンの活動にかぎって言えば、とくに「実証」すべきことはないのかもしれない。カレー(おそらく誰でも知っている)のおかげで、余計な挨拶などせずに会話がはじまるし、鍋をかき回していれば、自然に道行く人が寄ってくる。なにより、わいわいと誰かと一緒につくるのも食べるのも楽しい。ぼくたちは、これを「実証」したくてやっているわけではない。きれいにたいらげたあとの紙皿と、空になった鍋を見れば、みんなの満足度(満腹度)は伝わってくる。「じゃあ、また」と言いながら笑顔で別れれば、もうしばらく続けてみようと思う。ぼくたちの「ゆるい」活動には、こうした体験があればじゅうぶんなのだ。
利用者の人数や属性、滞留時間、回遊行動、売り上げなど、さまざまな指標からわかることは何か。言うまでもなく、公園で過ごすという体験は、アンケート調査ではとらえきれない。偶然の出会いや予期せぬ展開、人びとと交わしたことば。ぼくたちの「実験」は、つねにコミュニケーションのなかにある。
イベントからハプニングへ
「実証実験」は、イベントなのだ。それは、指定された場所で、決められた期間だけ、さまざまな制約が緩和される「特別な日」だ。その意味では、「実証実験」は非日常的な時間と空間を整備する試みだと言えるだろう。2日間だけ、ふだんは目にすることのないイスやテーブルが並べられる。キッチンカーも園内に乗り入れる。芝生では子どものための体験教室が開かれる。一連の企画は、タイムテーブルやマップにまとめられている。
もちろん理由があってのことだが、「実証実験」のプログラムは整然としている。ぼくたちのカレーづくりも、定位置が決められていた。(それほど気にはならないが)つねにスタッフの視線を感じながら、設営を行い、カレーづくりにとりかかった。すぐに「実証実験」であることなど忘れて、ふだんどおりの「ゆるい」活動になったが、撤収の時間が決められていたので、この日はいつもより時計を気にすることが多かった。
イベント慣れしてくると、知らず知らずのうちに形式に目が行くようになる。事前に告知されているかどうか、時間どおりに進行するかどうか。手続きや段取りにムダはないか、採算はだいじょうぶか。こういうことが気になるとしたら、それはおそらく「イベント症候群」とも言うべき「症状」の表れだ。
カレーキャラバンは、イベントではなく、ささやかなハプニングでありたいと考えている。周到に計画され、機械的に進行することが求められるイベントなら、プロにまかせておけばいい。ぼくたちは、(大いなる)アマチュアなのだ(自負を込めて)。
もちろんイベント自体は悪くないが、つねに「あたりまえ」を問い直すことは大切だ。一人ひとりの生活者は個性にあふれていて、(良くも悪くも)わがままで気まぐれだ。人びとが、お互いの時間を出し合う。あるいは偶然に通りがかる。ほんのひとときでも、同じ場所に集う。それが、カレーキャラバンという体験をかたどる。
現実的な制約はあるにせよ、そもそも公園や公共空間というのは、ぼくたちの気まぐれなふるまいを受け容れる寛容な場所のはずだ。人びとの動きをきめ細かく決める、タイムテーブルを設計する必要はない。むしろ、時が経つのを忘れる場所であってほしい。
ときどき、「もっと早めに告知してほしい」「時間や場所などの情報がわかりづらい」といった声が寄せられることがある。せっかく関心を持っていただいているのに、申し訳ないという気持ちになる。そのいっぽうで、「わからない」ことからはじめるのも悪くないと思う。何でもウェブに載っていると考えるのも、もったいない。すぐに「わかりやすさ」を求めてしまうのは、きっと、イベントに慣れすぎているからなのだ。ことばを交わし、カレーづくりの現場に「ともに居る」ことを実感することがなければ、ハプニングの面白さを味わうことができない。
ビデオ:大橋香奈(http://yutakana.org/)
「実証」することが必要以上に強調されると、本来の「実験」の可能性が制限されてしまう。「実験」は、いつでも失敗に寛容なはずだ。何かを確認・実証するための「実験」ではなく、発見・学びを促すための「実験」こそが魅力的だ。
もちろん、「実証実験」の成果が、「公共空間の活性化」をもたらす具体的なプランに活かされる可能性はある。だが、じつはぼくたちを惹きつけているのは、「実験」をきっかけに、まだ見ぬ現実を先取りできるからではないだろうか。「実験」は、具体的な課題解決を目指すとはかぎらず、現実に先行する〈ものがたり〉をいち早く体験する機会として再認識することも大切だろう。
それによって、ぼくたちは「効果」や「影響」を生み出すという使命感やプレッシャーから解放され、さまざまな可能性の範囲を探究する作業に挑むことができる。ぼくたちが問うべきなのは、こうした冒険的な試みを評価する(もはや評価ということばや営み自体が不要なのかもしれないが)方法や態度に関する議論が圧倒的に足りないという点だ。🐸*1
*1:参考:加藤文俊(2017)「ラボラトリー」とデザイン:問題解決から仮説生成へ『SFC Journal』第17巻第1号 特集:Design X*X Design: 未知の分野における新たなデザインの理論・方法の提案とその実践(pp. 110-130)