クローブ犬は考える

The style is myself.

つながるカレー(4)

赤字という態度

「カレーキャラバン」をスタートさせてから、まもなく一年になる。墨田区の商店街でカレーをつくったのがきっかけとなって、すでにいくつかのまちに出かける機会があった。私たちがまちかどで鍋を炊いていると、道ゆく人びとが近づいて来る。たしかに、見慣れない「よそ者」たちが、いきなり近所でカレーをつくりはじめたら、声をかけたくなるのもあたりまえだ。あらかじめ、私たちのプロジェクトについて聞いていなければ、警戒されても不思議ではない。

なぜここにいるのか、なぜカレーをつくっているのかについて、少しばかり説明すると、たいていは、好意的な反応に変わる。それほどに、カレーが「国民的」に愛されているということなのだろうか。できあがったころには「いくらですか?」と、ポケットから財布を出す人もいる。

私たちの凝り性が手伝って、見かけは、カレーの移動販売のようになってきた。お揃いのエプロンを身につけ、ちいさな看板も出す。ターリー皿も手に入れた。なんとなく「それっぽい」雰囲気ではある。だが、私たちのカレーには値段がつかない。言うまでもなく、私たちはプロではないのだ。回を重ねるたびに、少しずつカレーづくりのノウハウは身についてきたと思うが、それほどの味かどうかは判断が難しい。毎回、いろいろな人からツッコミやダメ出しをいただきながら、カレーの味が決まってゆく。だから、私たちがつくるカレーの味は、再現できない。もちろん、逐次、カレーづくりの過程を記録しておくことは可能だが、現場はいつもドタバタしていて、それどころではない。あとでふり返りながら、レシピのような、日誌のような活動記録は残すようにしている [1]。

「カレーキャラバン」の逗留地への旅費から、現地で買い揃える食材、衝動買いしてしまう調理器具にいたるまで、いまのところ、(いくつかの例外を除いて)すべて自腹である。つまり、赤字運営のプロジェクトなのである。できあがったカレーは、みんなで食べる。「炊き出し」でも「ふるまい」でもない。自発的で、無償ではたらき、人にも(すこしばかりは)役に立ち、さらに私たちの自己実現・自己充足にもつながる。だが、おそらく「ボランティア」と呼ばれる活動ともちがう。食べたいという人が近づいてくれば「どうぞ」と言って、カレーを器によそう。でも、食べることは強要しない。極端に言うと、私たちが気ままに出かけて行って、勝手にカレーをつくって食べるというプロジェクトだ。だから、赤字は当然なのだ。いまのところは、いささか自嘲気味に「大人買い」だなどと言って笑っていれば済む程度のことだ。いずれは、きちんと考えるときが来るとは思うが、まだ焦らなくていい。

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【写真】新潟市上古町商店街でのキャラバン(2012年5月)

もちろん、この活動に継続性を持たせるためには、何か工夫が必要だ。でも、私たちは、おそらく「ビジネスモデル」を考えることはしないだろう。むしろ、カレーの鍋を眺めながら、あたらしい「モデル」について思いをめぐらせてみたい。あたらしい「モデル」は、私たちの「供出する精神」に支えられながら〈特別な場所〉をつくるための方法だ。

どれほどがんばって記録を試みたとしても、私たちが、まちで人と出会いながらカレーをつくりあげた〈特別な場所〉の体験は、現場へと、あるいは私たちの身体のなかへと消えてゆく。おそらくは、その体験のなかに、あたらしい「モデル」のヒントがある。だからこそ、赤字覚悟ですすめるのである。覚悟というよりも、態度なのかもしれない。

 

旅に出よう

カレーづくりをすすめるうちに、たとえば「食材は現地で調達する」「市販のルーは使わない」といった方針が、私たちのあいだで共有されるようになった。どこかに書き記したわけではないが、カレーをつくるにあたっての「決まりごと」が、徐々に整理されていった。さらに、それが連鎖的にさまざまな準備や設えを呼ぶ。

食材を現地で調達するのなら、買い物カゴがあったほうがいい。ルーを使わずにスパイスを調合してつくるなら、スパイスを入れる容器を買おう。カレーづくりの大まかな方針に則って、私たちは、モノを買ったり揃えたりする。活動の記録を留めておくウェブサイトのために、まずドメインを取得しよう。ウェブには、「カレーキャラバン」のオリジナルキャラクターがほしい。このようにして、私たちは、「カレーキャラバン」を成り立たせる諸々のモノやコトを「全体として」デザインすることの重要性に、あらためて気づいた。それは、「小鍋会」で学んだレッスンでもある。

〈特別な場所〉をつくるための設計図は、未完成である。まちで鍋を炊くたびに、あたらしい発見があるからだ。それらにその都度向き合い、考えながらカレーをつくり、またつぎの逗留地へと向かうことになる。重要なのは、食材を鍋に入れて火にかけるだけでは、カレーは完成しないということだ。細部にこだわり、準備から片づけまで、さらには次なる出会いや将来の再会まで、「全体」を見わたすセンスが求められているのだ。

これまでの「カレーキャラバン」の活動について、書き留めておこうと思って、この文章を書きはじめたら、あれこれとアイデアが浮かんできた。まだ拡散気味だが、おそらく、カレーをつくりながらまちを巡るという話だけではなく、もう少し広い文脈で、人と出会うこと、分かち合うこと、永きにわたる関わりをつくることなどについて考えてみる必要がありそうだ。「つながるカレー」は、まちかどで人と人をつなぐだけではない。私たちのアイデアをもつなぐ役割を果たす。「カレーキャラバン」は、あたらしいコミュニケーションを創造する試みなのである。

部屋のなかで、じっとしているわけにはいかない。クルマに道具を詰め込んで、見知らぬまちへと出かけよう。市場を歩き、人と出会い、鍋のカレーをかき混ぜながら、あれこれと考える。鍋をかき混ぜる手は、頭につながっている。スパイスの香りを身体ごと吸い込んで、じぶんたちの頭のなかさえも、ぐるぐるとかき回してみる。私たちにできることは何か。「ひととであい まちでつくる 旅するカレー」は、まだはじまったばかりだ。

[1] カレーキャラバン http://curry-caravan.net/