クローブ犬は考える

The style is myself.

つながるカレー(5)

「おかんアート」

ちょうど一年くらい前に、同僚の水野大二郎さんに「おかんアート」ということばを教わった。同名の本も紹介してもらって、さっそく手に入れた。それから、なぜかわからないが、このなんとも肩から力の抜けた「おかんアート」ということばが頭から離れなくなった。「カレーキャラバン(http://curry-caravan.net/)」をふくめて、私たちがこれまですすめてきた活動を「おかんアート」ということばで整理できるような気がしたのだ。

じつは、「おかんアート」はそれほど難しいことばではなく、私たちの多くは、すでに何らかのかたちで触れているはずだ。厳密な定義は難しいが、「おかんアート」は「おもに中高年の主婦(母親=おかん)が余暇を利用して創作する自宅装飾用芸術作品」の総称だという。代表的なのは、ドアノブやティッシュ箱のカバー、牛乳パックでつくる「アート」作品、人形などだ。これらを「アート」と呼ぶかどうかもふくめ、個人的には、どちらかというと面倒な存在である。素朴に、(多くの場合)どうしたらいいのかわからない、いきなり無力感につつまれるようなイメージをもっている。本によると、「おかんアート」は、つぎのような特徴をもつモノとして位置づけることができる [1]。

  • 基本的に、非常に役に立つとは言い切れないが勢いはある
  • いらないものの再利用(眠った子を起こす)
  • 飾る場所に困る。飾るときはビニールに入れたままにしたりする
  • 部屋のあらゆる場所に侵攻してくる
  • センスが良いなど気にせず、世間のズレなんかも気にしない
  • なのに、暖かみだけは、熱いほどある
  • 作りすぎて置き場がなくなり、人への配布をスタートする
  • 置いた瞬間、どんなにおしゃれな部屋ももっさりさせる破壊力大
  • とぼけた顔にイラッと来るか、なごまされるかはあなた次第
  • フィーリングで作るキティとドラえもんは危険

このリストを見て、思わずうなずいてしまった。先ほど面倒だと書いたが、それは、存在感の証だ。こうした「おかんアート」の存在や動向を、「何か」に対抗するためのアプローチとして大げさに語るつもりはない。そもそも、この語感やリズム感で成り立つ世界は、すでに「何か」をあっけらかんと崩壊させているかのようにも思えるからだ。「おかんアート」は、リサイクル精神にあふれた「エコ」なクラフトでもないし、手づくりの価値を高めてあたらしいマーケットを創造 しようという話にも、結びつきそうにない。「おかんアート」の本質は、純粋に「無用の用」を追い求める姿勢と、「質より量」と言わんばかりの圧倒的な繁殖 力だろう。

「おかん」の身体知が動員されて、モノが出来上がる。大雑把なように見えて、じつはさまざまな創意工夫が見え隠れすることもたしかだ。「おかんアート」の周辺については、「カレーキャラバン」と関係づけながら、折に触れて紹介していくことにしたい。ここで確認しておきたいのは、私 たちのカレーづくりも、おそらく「無用の用」を求める気持ちによって支えられている部分があるという点だ。「赤字という態度」があってこそ実現する〈場づくり〉のヒントが、きっと「おかんアート」のなかにある。

 

ほどかれる気持ち

「おかんアート」ということばは、最近まで知らなかったのだが、ふと思いだしたエピソードがある。たしか、私が高校に入学する直前の春休みの頃だったと思う。 旅先でお世話になった「おかん」たちにおみやげをもらって、家に帰ったときのことだ。それは、毛糸で編まれた手作りの鍋敷きのようなモノだった。ひとつだけではなく、いくつか持ち帰ったと思う。母と姉は、その細やかな手仕事を見て驚嘆した。そして、ほどなく「これ、よくできているわねぇ。どうなっているのかしら。」などと言いながら、母と姉は、その鍋敷きらしきモノを、ほどきはじめたのである。目の前で、するすると毛糸が手繰られていくのを見て、私は泣きわめいた。いまどきのことばなら、つまり、「キレた」ということだ。

よく考えてみると、それはじぶんが使うようなモノではなかった。色合いもピンクとえんじ色の組み合わせといったふうで、男子高校生には、とうてい似合いそうもない。そもそも、当時のじぶんにとって、鍋敷きに実用的な意味はなかった。「おかん」たちも、じつは私のためではなく、母や姉の手に渡ることを想って私に託したのかもしれない。だから、せっかくおみやげでもらって来たと はいえ、泣きわめくほどのことでもなかったのだろう。「おかん」の手による造作の細かいところまでは思い出せないのだが、ほどかれる鍋敷きを見て、とにかく哀しさと悔しさが入り交じったような感情になったことは記憶にある。

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写真】こんな感じ|出典:http://finafina.com/?pid=45173780

 もちろん、母にも姉にも悪意はなかったはずだ。見るからに、私が日常的に使うようなモノではないし、あまりにも器用に編まれていた「おかんアート」の完成度に驚き、どのように出来上がっているのかを確かめようと思ったのだろう。罪のない、好奇心の表れだったのだ。分解や解体は、モノについてよく知るための第一歩だ。

だが、たとえ無用のモノであっても、そのなかには旅先での思い出がしみ込んでいた。鍋敷きのなかに、お世話になった「おかん」たちの顔が映っていた。知らないうちに、じぶんが想像していたよりもはるかに強い感情が、鍋敷きに充填されていたのだ。だから、それが目の前でほどかれていくとき、自然に涙があふれた。私が意外なほどに泣きわめいたことで、母も姉もびっくりして、何度も私に謝った。毛糸の鍋敷きがほどかれるのを見て、いきなり泣き出す男子高校生。そして、ひたすら詫びる母と姉。遠い昔の笑い話だ。

すでに述べたとおり、手づくりで成り立つ「おかんアート」は、「カレーキャラバン」について考える上でも重要なヒントになるはずだ。毛糸の鍋敷きが、涙が出るほど大切に思えたのはなぜか。「おかんカレー」は、なぜ美味しいのか。編み目や配色だけで、鍋敷きが出来上がるわけではない。おなじように、食材や調味料だけで、カレーの「味」が決まるわけではないのだ。

「味」をほどく(解く)こと。私たちは、カレーが出来上がるまで、そして食べ終わってからのさまざまな出来事にも目を向けることになるだろう。さらに大切なのは、その過程で、私たちの気持ちや心のありようも、(場合によっては思わぬかたちで)ほどかれていくということだ。私たちは、それを待ちながら、鍋のカレーをかき回しているのかもしれない。

 

[1] 下町レトロに首っ丈の会(2010)『おかんアート』