クローブ犬は考える

The style is myself.

「ゆるさ」があれば(4)

人が人を呼ぶ

その後も、活動のペースが衰えることはなく、だいたい月に1回くらいのペースでいろいろなまちに出かけてカレーをつくっている。お声がけいただくことも増えて、このままいくと、年内には50回目を迎えることになるだろう。カレーキャラバンが続いてきた理由は、なにより、楽しいからだと思う。そもそも到達点を決めていないので、いつ終わってもおかしくないし、逆にずっと終わらずに続くような気もする。それでいい(はず)。

46回目は10月18日。晴れて、汗ばむくらいの陽気になった。ぼくたちは、千葉県館山市の長須賀地区まで出かけて、「金八商店」の隣りにある「空き地」(ふだんは店の駐車場として使われているらしい)にテントを張った。これまでに議論してきたように*1、カレーキャラバンは、カレーづくりをとおして「公(パブリック)」の領域と「私(プライベート)」の領域との境界を曖昧にする活動だと言える。それは、かつてあった「共(コモン)」の領域(=誰のものでもあって、誰のものでもない領域)を、一時的・即興的に取り戻す試みである。今回は、「金八商店」の鳥山誠さんのご厚意で、空き地の「際(きわ)」に器財をセッティングして、カレーをつくることになった。

f:id:who-me:20151018141305j:plain【2015年10月18日(日)午前中:「金八商店」の隣りの「空き地」にテントを張って、カレーを準備。最初は、カレーキャラバンのサイン(看板)は、通りに向けていた。奥のほうにはベンチやイスが置いてあり、「誰でも入ってきてくつろぐことのできる場所」として開放されていた。】

 

f:id:who-me:20151018172437j:plain【2015年10月18日(日)夕方:無事に「金八カレー」が完成して、提灯ランプを点した。スパイスの香りに誘われて?人びとが「空き地」に集まってきた。】

 

たびたび紹介してきたが、あれこれとおしゃべりをしながらカレーをつくるのが楽しい。そして、できあがったカレーを、配るひとときも気分がいい。木村健世さんは、カレーキャラバンを「あたらしい旅のかたち」だと言う。はじめてのまちに出かけても、ぼくたちはガイドブックに載っているような“観光名所”を巡るわけではなく、一か所に留まってカレーをつくっている。だから、「旅のかたち」としては、かなり変わっているのだが、動かなくても、まちに暮らす人と出会う機会が生まれる。カレーが人を呼ぶ。そして、人が人を呼ぶ。人がいるところ(建物のなか、住宅地、公園や緑地など)では、活動が人びとを引きつける。「人びとはいっしょに集まり、いっしょに動きまわり、他の人びとのそばに身を置こうとする。新しい活動は、すでに行われている出来事の近くで始まる」のだ。*2

さらに興味ぶかいことに、知らない人どうしでも、カレーがきっかけになって会話をはじめる。この日、カレーを食べに集まってきた人の多くは、「金八商店」の界隈に暮らしていて、顔なじみだったはずだ。だが、カレーを配るテントの前に並びながら、はじめてことばを交わした人もいたにちがいない。黒板に書かれた食材を見て「あ、柿が入っているんだ」とか、「カレーキャラバンって、全国をまわっているらしいね」とか。他愛のない内容であっても、カレー(あるいはカレーキャラバンの活動)が「話の種」になって、人と人とのあいだを結ぶ。ウィリアム・ホワイトは、こうした状況を「トライアンギュレーション(triangulation)」と呼んだ。*3

まちなかで「思いがけない珍しい出来事」に出会うと、それが、人びとのコミュニケーションを促すというのだ。カレーを盛りつけるようすや、辺りに置かれた調理器具、ぼくたちの手際(手際の悪さ?)を一緒に眺めているうちに、きっと人びとは話しやすい雰囲気になる。ささやかで「ゆるい」プロセスだ。

 

「空き地」で考えた

まちかどで鍋を炊いていると、毎回気づくことがたくさんある。この日のカレーづくりも、いろいろなことを考えるきっかけになった。すでに述べたとおり、今回は「金八商店」の隣りにある空き地を、ぼくたちのような「よそ者(逗留者)」に提供していただいたことで実現した。水道も電気も気軽に使うことができたので、じつに快適だった。人目につくように、道路との際(きわ)のところにテントを張ったが、じゅうぶんに余裕のある広さだったので、カレーを配るときに、人びとが道路にあふれ出るようなこともなかった。

ずいぶんひさしぶりに、「空き地」の存在を実感したような気がした。空き地は、土地が空いているだけでなく、(つねに)開放されているものだということにもあらためて気づいた。ぼくが子どものころには、よく近所の空き地で遊んだ。緑地でも公園でもない、空き地があった。もちろん幼かったので、その場所が誰かの「私的(プライベート)な」土地かどうかなどということは考えもせず、空き地に足を踏み入れていた。でも、誰かに叱られることもなかった。おそらくは、大人の目がおよんでいて、ぼくたちは、安全に遊ばせてもらっていたのだ。「金八商店」の隣りの空き地には、細かい砂利が敷かれていて、ふらっと入ってキャッチボールをするような雰囲気ではない。だが、「金八商店」の鳥山さんと話をしているうちに、あの場所は駐車場というよりは、空き地と呼ぶのにふさわしいことがわかった。出入りを拒むフェンスも、大げさな立て看板もない。

しかも、そのままの状態で「空いている」のではなく、鳥山さんのさまざまな想いで「整備された空き地」だった。たとえば、奥のほうにはベンチやイスが置かれていて、タバコを吸いながらひと休みできるような空間が設えてある。石でできた水車が回っていて、流れる水の涼やかな音がする。あとで聞いたが、店内から漏れ出るWiFiも使えるらしい。ふらっと来て、タバコを吸いながらメールをチェックする。カフェでも「シェアオフィス」でもない。まさに「共(コモン)」として、すでに近所の人びとに開放されていたのだ。重要なのは、これが「公共(パブリック・コモン)」ではないという点だ。私的な空間を外に開こうとする「私共(プライベート・コモン)」ともいうべき場所だ。面倒な手続きやルールはいらない。鳥山さんのはからいによって、「空いている」場所なのだ。

間もなくカレーができるだろうという頃(ぼくたちが完成予定として伝えていた時刻の少しまえ)になると、鳥山さんは、店内にあったコーヒーメーカーやウォーターサーバーなどをテントの脇に移動しはじめた。チョコレートの入ったちいさな瓶も、“サルビアコーヒー”のプレートまである。イスもゴミ箱も、いずれもぼくたちがお願いしたわけではない。ほどなく、鳥山さんのおかげで、ちいさな「カフェコーナー」ができた。カレーを食べたあとで、美味しいコーヒー。ぼくたちにとっては、うれしいかぎりだ。

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実際に、この「カフェコーナー」ができたおかげで、人びとが長居をした。カレーを食べて、そのあとでコーヒーを片手におしゃべりをする。つい長居をしたくなる雰囲気だった。それから、差し入れもたくさんあった。それは、鳥山さんがこの界隈でどのような存在なのかを知る手がかりでもある。きっと、日ごろから、この空き地が開放されていることへの気持ちと無関係ではないはずだ。

にわか仕込みの知識だが、この日ぼくたちが、たまたまのご縁でテントを張った長須賀の界隈は、とても豊かな宿場まちだったようだ。館山湾へと注ぐふたつの川に挟まれて、さまざまな物が行き来する地域だった。「金八商店」の近所には、材木店がいくつかあった。古くて大きな蔵もあった。ここに、たくさんの物が集まった。つまり、人びとが集まった。残念ながら、いまでは通り沿いの店の数も、界隈に暮らす人の数も減って、賑わいはあまり感じられないが、豊かさを源泉とする「道楽の精神」ともいうべき鷹揚さが、人びとのふるまいのなかに息づいているように感じられた。

今回、カレーづくりを実施するにあたってお世話になった岸田一輝さん(千葉大学岡部明子研究室OB)が、男衆が横に並んで、さっそうと街道を歩いているモノクロ写真を見せてくれた。昭和30年代の長須賀地区だ。じぶんの楽しさを追求していれば、いろいろな問題は乗り越えることができる。それが岸田さんの言う「道楽としてのまちづくり」の本質だ。笑顔でまちをゆくさまは、それを象徴的に表しているのだろう。

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【出典:道楽としてのまちづくりhttp://localnippon.muji.com/localist/508/

 

言うまでもなく、「道楽の精神」も「整備された空き地」も、カレーキャラバンの活動と相性がいい。気まぐれに旅をする、ぼくたちのような「逗留者」に快く場所を開き、豊かにもてなしてくれる。この幸運な出会いに、感謝するしかない。ありがとうございました。

 

*1:たとえば、「ゆるさ」があれば(3)を参照 http://blog.cloveken.net/entry/2015/04/25/203616

*2:ヤン・ゲール(2011)『建物のあいだのアクティビティ』(Life between buildings: Using public space.)鹿島出版会

*3:Whyte, W. H. (1980) The social life of small urban spaces. The Conservation Foundation.