クローブ犬は考える

The style is myself.

カレーとともにあらんことを。

フォースシーズンがはじまります。

7年目をむかえたカレーキャラバン。“フォースシーズン”は、旅をしながら場づくりの実践をおこなっている人やグループとともに、カレーづくりをすすめてみたいと考えています。たとえばアカペラ、あるいはドキュメンタリー映画。もちろん、ほかにもたくさん可能性があります。結局のところ、場づくりというのはわりと単純で、じぶんたちの好きな〈モノ・コト〉を集めて、好きな人に声をかければ実現するような気もします。あとは、よろこんで時間を出し合うこと。
これまでの経験とつながりを辿りながら、これからも、いろいろなところに出没します。つぎは、あなたのまちで。 

  • 5月4日(金)岩手県陸前高田市
  • 5月6日(日)岩手県奥州市

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「ゆるさ」があれば(9)

「社会実験」は窮屈だ

2017年11月、カレーキャラバンは、ついに 70回目(番外編を除く)をむかえた。秋はイベントが多くて、慌ただしく準備をしていたためか、記念すべき70回目であることをすっかり忘れていた。活動をはじめてから6年目の後半なので、ほぼ1か月に1回のペースですすんできたことになる。じぶんたちのことながら、よくここまで続いたものだと思う。

70回目は、横浜の大通り公園(横浜市中区)にテントを張ってカレーをつくった。「実証実験」という位置づけだ。ぼくたちは、公園の一角を使わせてもらう立場なので、「実証実験」だと言われれば、その文脈にじぶんたちの活動を位置づけるしかない。だが、「実証実験」というのは、いささか大仰な感じがする。ふだんは、もっと気楽なのだ。今回は、「公共空間の活性化」のための「実証実験」で、とくに「飲食の提供」や「子供向けの遊び」といったテーマが設定されている。こうしてカレーキャラバンは、地域活性化に資する活動として語られることになる。

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2017年11月3日(金・祝)|「実証実験」によって、いつもとちがう公園になる。


「実証実験」(あるいは「社会実験」と呼ばれることも多い)は、公園などの公共空間を、ふだんとはちがう使い方をするための仕組みだ。多くの場合、公園で「やってはいけないこと」が決められている。場所によっては、長大なリストがある。「社会実験」は、その「やってはいけないこと」のいくつかを緩和する試みなのだ。つまり、(限定的ではあっても)「社会実験」という文脈があれば、さまざまな活動が許される。
カレーキャラバンは、これまでにも、何度か公園で実施したことがある。そして、公園や公共の広場を利用するさいには、「ふさわしい」理由が必要なことを体験をとおして学んできた。もちろん「公共空間」のあり方を考えることは重要なのだが、「実証実験」や「社会実験」だと言いながらカレーをつくると、どうも窮屈なのだ。なんだか居心地が悪い。ぼくたちの「ゆるさ」が、少なからず損なわれるような気持ちになるのだ。

その理由を、あらためて考えてみた。そもそも「実証実験」では、文字どおり(何かを)「実証」することが要求される。つまり、「実験」による「効果」や「影響」の評価が求められるのだ。大抵、アンケート調査をおこなって、感想や満足度をたずねる。アンケート調査の結果を集計して、一連の試みが「公共空間の活性化」に貢献しうるのかどうかを判断するのだ。公園を訪れる人が増えていたり、ふだんとはちがった属性の人が公園に来ていたりすることがわかると、食べものや子どもの遊び場を提供したことが、こうした変化をもたらすきっかけになったと考えることができる。そして、「公共空間の活性化」に役立ちうる活動として位置づけられる。

だが、カレーキャラバンの活動にかぎって言えば、とくに「実証」すべきことはないのかもしれない。カレー(おそらく誰でも知っている)のおかげで、余計な挨拶などせずに会話がはじまるし、鍋をかき回していれば、自然に道行く人が寄ってくる。なにより、わいわいと誰かと一緒につくるのも食べるのも楽しい。ぼくたちは、これを「実証」したくてやっているわけではない。きれいにたいらげたあとの紙皿と、空になった鍋を見れば、みんなの満足度(満腹度)は伝わってくる。「じゃあ、また」と言いながら笑顔で別れれば、もうしばらく続けてみようと思う。ぼくたちの「ゆるい」活動には、こうした体験があればじゅうぶんなのだ。
利用者の人数や属性、滞留時間、回遊行動、売り上げなど、さまざまな指標からわかることは何か。言うまでもなく、公園で過ごすという体験は、アンケート調査ではとらえきれない。偶然の出会いや予期せぬ展開、人びとと交わしたことば。ぼくたちの「実験」は、つねにコミュニケーションのなかにある。

 

イベントからハプニングへ

「実証実験」は、イベントなのだ。それは、指定された場所で、決められた期間だけ、さまざまな制約が緩和される「特別な日」だ。その意味では、「実証実験」は非日常的な時間と空間を整備する試みだと言えるだろう。2日間だけ、ふだんは目にすることのないイスやテーブルが並べられる。キッチンカーも園内に乗り入れる。芝生では子どものための体験教室が開かれる。一連の企画は、タイムテーブルやマップにまとめられている。

もちろん理由があってのことだが、「実証実験」のプログラムは整然としている。ぼくたちのカレーづくりも、定位置が決められていた。(それほど気にはならないが)つねにスタッフの視線を感じながら、設営を行い、カレーづくりにとりかかった。すぐに「実証実験」であることなど忘れて、ふだんどおりの「ゆるい」活動になったが、撤収の時間が決められていたので、この日はいつもより時計を気にすることが多かった。
イベント慣れしてくると、知らず知らずのうちに形式に目が行くようになる。事前に告知されているかどうか、時間どおりに進行するかどうか。手続きや段取りにムダはないか、採算はだいじょうぶか。こういうことが気になるとしたら、それはおそらく「イベント症候群」とも言うべき「症状」の表れだ。

 

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カレーキャラバンは、イベントではなく、ささやかなハプニングでありたいと考えている。周到に計画され、機械的に進行することが求められるイベントなら、プロにまかせておけばいい。ぼくたちは、(大いなる)アマチュアなのだ(自負を込めて)。
もちろんイベント自体は悪くないが、つねに「あたりまえ」を問い直すことは大切だ。一人ひとりの生活者は個性にあふれていて、(良くも悪くも)わがままで気まぐれだ。人びとが、お互いの時間を出し合う。あるいは偶然に通りがかる。ほんのひとときでも、同じ場所に集う。それが、カレーキャラバンという体験をかたどる。
現実的な制約はあるにせよ、そもそも公園や公共空間というのは、ぼくたちの気まぐれなふるまいを受け容れる寛容な場所のはずだ。人びとの動きをきめ細かく決める、タイムテーブルを設計する必要はない。むしろ、時が経つのを忘れる場所であってほしい。

ときどき、「もっと早めに告知してほしい」「時間や場所などの情報がわかりづらい」といった声が寄せられることがある。せっかく関心を持っていただいているのに、申し訳ないという気持ちになる。そのいっぽうで、「わからない」ことからはじめるのも悪くないと思う。何でもウェブに載っていると考えるのも、もったいない。すぐに「わかりやすさ」を求めてしまうのは、きっと、イベントに慣れすぎているからなのだ。ことばを交わし、カレーづくりの現場に「ともに居る」ことを実感することがなければ、ハプニングの面白さを味わうことができない。

 

ビデオ:大橋香奈(http://yutakana.org/

 

「実証」することが必要以上に強調されると、本来の「実験」の可能性が制限されてしまう。「実験」は、いつでも失敗に寛容なはずだ。何かを確認・実証するための「実験」ではなく、発見・学びを促すための「実験」こそが魅力的だ。
もちろん、「実証実験」の成果が、「公共空間の活性化」をもたらす具体的なプランに活かされる可能性はある。だが、じつはぼくたちを惹きつけているのは、「実験」をきっかけに、まだ見ぬ現実を先取りできるからではないだろうか。「実験」は、具体的な課題解決を目指すとはかぎらず、現実に先行する〈ものがたり〉をいち早く体験する機会として再認識することも大切だろう。
それによって、ぼくたちは「効果」や「影響」を生み出すという使命感やプレッシャーから解放され、さまざまな可能性の範囲を探究する作業に挑むことができる。ぼくたちが問うべきなのは、こうした冒険的な試みを評価する(もはや評価ということばや営み自体が不要なのかもしれないが)方法や態度に関する議論が圧倒的に足りないという点だ。🐸*1

*1:参考:加藤文俊(2017)「ラボラトリー」とデザイン:問題解決から仮説生成へ『SFC Journal』第17巻第1号 特集:Design X*X Design: 未知の分野における新たなデザインの理論・方法の提案とその実践(pp. 110-130)

「ゆるさ」があれば(8)

きちんとした設備

芋煮の余韻(くわしくは、「ゆるさ」があれば(7)[link] を参照)に浸りつつ、つぎの活動をむかえた。山形に出かけてからわずか1週間後、こんどは福井でカレーをつくることになった。これまでにも何度かあったように、加藤研の「キャンプ」(フィールドワーク実習)に合流するかたちでの実施だ。実習に参加する学生から見ると、2泊3日のプログラムに組み込まれた「2日目の晩ごはん」がカレーだという位置づけになる。
下見の段階で、福井では「路上」での実施は難しいということがわかった。そして、いろいろと検討した結果、駅にほど近いところにあるキッチンを借りることになった。それは、「ガスのアンテナショップ」ともいうべき場所で、料理教室をはじめ、さまざまなイベントが実施されているレンタルスペースだ。駅前の大規模な再開発計画があるために、今年度いっぱいで閉じてしまうとのことだが、ガスを使う活動であるならば無料で利用できると聞いて、この場所を使ってみることにした。幸いなことに、予定していた日の午後は空いていたので、さっそく手続きをした。

「アンテナショップ」であるから、とにかくピカピカだ。一番奥にシンクとガス台があって、大きな調理台が設えてある。ちょっとした「料理番組」を収録するためのスタジオのようにも見える。もちろん、基本的な調理器具は、ひととおり揃っている。なんともありがたいことだ。今回は、さすがに遠いのでクルマで行くのを断念した。事前に鍋やスパイスなど、最低限必要だと思われるモノを宅急便で送り、あとは、この施設に常備されている器財でなんとかなるだろうと思った。実際に、この快適で機能的なキッチンのおかげで、カレーづくりは順調にすすんだ。調理台は広いし、火加減の調整も楽だ。

https://www.instagram.com/p/BaN8vZgABBG/

料理番組っぽい。 #カレーキャラバン #サードシーズン #currycaravan

 

ぼくたちは、通りに面したガラス戸を開け放して、少しでも「外」とのつながりをつくろうとしていた。多少はスパイスの香りが辺りに漂っていたのだろうか。何人かの人は、ちょっと足をとめた。だが、少し奥まったところで鍋を炊いているようすが見えたとしても、調理台のほうまで歩みよってくることはなかった。単純なことながら、まちの日常的な往来と離れすぎていたのだろう。
じつは、この日は(実質的には)二人でカレーをつくらなければならなかったのだが、きちんとした設備のおかげで、ほぼ予定どおりにすすんだ。そして、カレーは美味しくできあがった。多少の呼び込みもしたが、カレーを配っているということがわかると、道ゆく人もなかに入ってきた。カレーを食べるときには、いつものように、賑やかな情景が生まれ、いつものように、楽しいひとときを過ごした。

だが、何かちがう。片づけをしながら、ぼくは、ちょっとした「違和感」をおぼえていた。あとで話をしたら、どうやら亜維子さんも似たような感覚だったようだ。準備から調理、そしてみんなで一緒に食べて、片づけるところまで、一連の流れは滞りがなかった。むしろ、いつもよりすみやかに進行した。だが、カレーをつくっている最中に鍋をのぞき込まれる場面は、ほとんどなかった。手際の悪いぼくたちにちょっかいを出したり、他愛のないやりとりで手が止まったりすることはなかった。ぼくたちは、カウンター越しに(ちょっと離れたところから)視線を感じながら、ひたすらカレーづくりに集中していた。というより、集中せざるをえなかった。それは、今回のセッティングがもたらしたのではないかと思う。

 

「どちらでもない場所」

きっと、設備が立派すぎたのだ。ピカピカの施設を無料で使っておきながら、ずいぶんわがままな物言いに聞こえてしまうにちがいない。だが、この設えによって、ぼくたちは、いとも簡単にカレーを「つくる人」になってしまった。カウンター越しに向き合うのは、「食べる人」だ。日ごろから気づいていたはずのことなのだが、今回は「つくる人」と「食べる人」との境界が際立ってしまった。ぼくたちは、カウンターの内側に立ち、鍋をかき回している。スパイスの香りに誘われて、道ゆく誰かが入ってきたとしても、依然としてカウンターに隔てられている。だから、近づいても「向こう側」と「こちら側」が溶け合うことはない。これまでに、たびたび〈公・共・私〉という図式で語ってきた [link] が、じつは、カレーキャラバンの面白さは、「向こう側」と「こちら側」が曖昧になる点にある。そのことに、あらためて気づいた。わずか80センチほどの距離であっても、固く頑丈なカウンターが「あいだ」に横たわっている。その境界は、越えるのが難しい。

ほとんどの学生たちは、カレーを食べると、そそくさと帰ってしまった。実習のプログラムでは「2日目の晩ごはん」になっていたし、フィールドワークの成果をまとめる作業のことを考えて、急いで食べて宿に戻ったのだろう。「ありがとうございました」さえ言わずに帰ってしまった学生たちを見て、いささかやるせない気分になった。少しでも片づけを手伝うくらいのことは思いつかないのだろうか。
もちろん、「ありがとう」くらいはごく自然に言えるほうがいいのだが、それもカウンターの存在と無関係ではないのかもしれない。あの場所で、ぼくたちがカウンターの内側に留まっているかぎり、つき合い方は変わらない。もし、カウンターの「外」に出ていたら、往来に少しでも近づこうとしていたら、ちがった光景に出会っていたようにも思う。

ふと、梨木香歩の『ぐるりのこと』を思い出した。そう、「向こう」でも「こちら」でもない「どちらでもない場所」こそが、人びとのコミュニケーションに対する(心理的な)「構え」を解くのだ。なにより、この「ガスのアンテナショップ」をえらんだ時点で、カウンターの存在についてもっと想像力をはたらかせているべきだった。「向こう」と「こちら」の距離(距離感)が、一目でわかるようなかたちで物理的に調整されてしまうと、ぼくたちは、きちんとカレーをつくらざるをえなくなる。つまり、カレーづくりの行程を「すべて」把握しなければならない。ぼくたちが、ふだん「違和感」を抱くことなく、楽しく過ごしているのは「半端」な場所だったのだ。それは、移ろいやすい場所だ。「どちらでもない場所」でつくられたカレーは、「誰のものでもない」ということになる。だからこそ、無料で配る。「すべて」を引き受けていないのだから、値段のつけようがないのだ。

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Video: 大橋香奈(http://yutakana.org/

 

いろいろな事情があって、今回は「ガスのアンテナショップ」でカレーをつくったが、やはりカレーキャラバンは「外」がいいのかもしれない。それがかなわない場合にも、できるかぎり人びとの往来に近づいたほうがよさそうだ。もちろん、「外」に向かうと、とたんにカレーづくりは面倒になる。ときには寒さや強風のおかげで、鍋がいっこうに熱くならないこともある。水場が遠くて、ポリタンクを持って水を汲みに行かなければならないこともあれば、陽が落ちてから、クルマのヘッドライトで辺りを照らしながら撤収することもある。だが、蛍光灯の下で無風状態で調理することは、ぼくたちが「すべて」を把握しなければならない環境へ近づくことになる。条件が整えば整うほど、ぼくたちは「生産者」のようにふるまうようになる。そのことが、行きずりの人びとを「消費者」に変えてしまう。

「すべて」を引き受けないことは、ちょっと大げさに言えば、ひとつの戦略だ。「つくる人」にも「食べる人」にもならず、「どちらでもない(どちらでもある)」立場でかかわること、かかわり続けることが、ぼくたちが標榜する場づくりの方向性だ。🐫

ぐるりのこと

ぐるりのこと

 

 

「ゆるさ」があれば(7)

芋煮に学ぶ

秋の訪れとともに動きが活発になり、こんどは、山形に出かけることになった。秋の山形といえば、芋煮である。今回は、まさにそのタイミングに合わせて、企画されたのだ。サードシーズン4回目(通算67回目)。山形の芋煮については、これまでに、いろいろな記事を読んだことがある。巨大な鍋をクレーンでかき混ぜるという場面は、たびたびニュースの映像などでも見かけるものだ。『玄米せんせいの弁当箱』という漫画のなかには、芋煮のレシピをめぐる「バトル」のようすが描かれている。いろいろと盛り上がっていることは多少なりとも知っていたものの、その現場に行くのは初めてだ。

 

https://www.instagram.com/p/BZ5aLZgAKHQ/

芋煮味。じゃがいもの味だ!

 

今回は、おもに五十嵐さん(2月に盛岡で実施したカレーキャラバンで知り合った)とやりとりしながら準備をすすめた。どうやら敬老の日あたりが「解禁」の合図となって、そのあと、外にいても寒くない程度の頃合いまでが、芋煮のシーズンらしい。実際には、2か月足らずだろうか。シーズン中は、河川敷などで芋煮を楽しむのだという。今回は、その芋煮の集まりに紛れてカレーをつくるという趣向だ。

場所の候補となったのは、馬見ヶ崎川の河川敷。これまでに、全国のあちこちを巡りながら、60数回の旅を続けてきたが、河川敷でカレーをつくったことはなかった。残念ながら、河川敷についてはあまり好ましいイメージを持てずにいた。山奥に出かけて渓流のそばでキャンプをするならともかく、街なかの河川敷から思い浮かぶのは、あれこれと「禁止」する立て看板だ。まずなにより、そもそも河川敷で火を使うことは禁じられていることが多い。川が行政区域の境界になっている場合には、川の「こちら」と「あちら」で決まり事がちがっていることもある。たとえばバーベキューのシーズンになると、あっという間にゴミで汚れてしまう。酔って騒いで、界隈に暮らす住民からは苦情が出る。河川敷だけではない。近所のコンビニのゴミ箱までもが、宴の残骸であふれる。
その結果として、「バーベキューのための場所」が整備されることもある。決められた区画で、いくつものルールに従いながらバーベキューがおこなわれる。のびやかなはずの「外」での活動が制限され、形式ばったものになってしまう。だから、「河川敷でやりましょう」と言われたときには、なんとなく窮屈そうなイメージしか頭に浮かんでこなかったのだ。

ぼくたちは、前日の晩に、買い出しをしておくことにした。地元のスーパーに行くと、店内には「芋煮コーナー」があった。里芋はもちろん、ネギ、こんにゃくなどがすぐそばに置かれていて、うどんやカレーのルー(どうやら「シメ」にカレーを入れるやり方もあるらしい)、ビールやおつまみの類いまで並べてある。必要なものは、この「コーナー」でひととおり揃うようだ。ぼくたちは、あくまでもカレーキャラバンなので、カレーのための食材を買った(もちろん、そのなかに里芋はふくまれているが)。

なにより驚いたのは、そのスーパーの駐車場の傍らにも「芋煮コーナー」があったことだ。店内は食材だが、こっちは芋煮用器財の貸し出しだ。ラックの上には、鍋や基本的な調理器具、さらにはゴザまで置かれている。これらの器財が無料で貸し出されているのだ。しかも、借りるのにいちいち名前や連絡先を書くような手続きはない(ように見えた)。そもそも、「見張り」の人がいないのだ。すぐに「見張り」のことを考えたり、返却されるのかどうか心配したりすること自体が、ぼくの了見のせまさというか、想像力の乏しさなのかもしれない。
借りたら返すのはあたりまえだ。つぎに使う人のことを考えるなら、きれいに洗っておこうと思う。芋煮への愛があればこそだ。食材も調理器具も、気軽に調達できるようになっている。スーパーに行っただけでも、芋煮への想いの強さが伝わってくる。ぼくたちは、一つひとつに驚いて声をあげたり写真を撮ったりしていたが、山形の人びとにとっては、ごく「あたりまえ」なことなのだろう。いちいち騒いだりしないはずだ。

 

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直火の威力

そして、翌朝。予報どおり、雨が降っていた。じつは前日に「場所取り」のつもりで橋の下の一角に貼り紙をしておいた。橋の下なら、雨でもなんとかなるからだ。河川敷に向かっている途中で、五十嵐さんから連絡があった。すでに、ぼくたちの貼り紙の前にブルーシートが広げられているとのこと。メッセージとともに送られてきた写真を見ると、かなりの大所帯のようだ。貼り紙の効力はさほどなかったようだが、大きなブルーシートのご一行のすぐそばにテントを張って、カレーをつくればいい。そう思いながら到着し、クルマから荷物を下ろした。

厚い雲が空をおおっているものの、雨が上がったので、なんとかなるだろうという想いで、橋の下ではなく空の下に場所をつくることにした(大所帯のグループのすぐ近くだと、やりづらい感じもした)。また降りはじめるかもしれないが、空の下は、やはり開放感がある。ぼくたちは、水場のそばにテントを張った。河川敷は、驚くほどきれいだった。ゴミは落ちていない。騒々しく、あれこれと「禁止」を告げる立て看板も見当たらない。
先ほど書いたような、河川敷のイメージはことごとく塗り替えられることになった。河川敷には、コンクリートの丸い台がところどろに敷設されている。決して大げさな話ではなく、文字どおり芋煮のための「舞台装置」だ。七輪(炭火)やガスバーナーなどではなく、直火で鍋を炊くのだ。

 

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すぐ隣りの「舞台」では、五十嵐さんの友人たちが、芋煮の準備をはじめていた。河原からいくつか大きめの石を拾ってきて、かまどをつくって鍋をのせる。そして、薪に火をつける。コンクリートが敷かれているのは、そのためだ。鍋を火にかけるやり方としては、一番「正統」なのではないだろうか。つまりこの河川敷は、芋煮用に整備されているのだ。薪は勢いよく燃えはじめ、鍋から湯気が立ち上った。なんだか、カセットコンロを使っているのが恥ずかしいような気分にさえなる。
そして水道は、もちろん水栓がついている。ぼくたちが、街なかの公園で出会った「あの水道」ではない(くわしくは「ゆるさがあれば(5)」を参照)。コンクリートの「舞台」があるくらいなので、もちろん水は自由に使える。そういえば、昨日のスーパーでは、食材のみならず薪やゴミ袋までもが入った「セット」販売のチラシもあった。ことごとく、まちは「芋煮フレンドリー」なのだ。それは、すばらしい「ゆるさ」だと理解することもできる。一人ひとりが、芋煮を愉しみたい。その「自由」への想いが束ねられると、モノを揃えたり、貸し借りしたり、ゴミを拾ったり、一連のふるまいまでもが整えられて、持続可能なかたちに研がれてゆく。きちんとしているからこそ、「ゆるさ」を保つことができる。というより、「ゆるさ」を守るためには、(きちんとすべきところを)きちんとしなければ、あっという間に無秩序へと向かうのだ。ゴミだらけの河川敷になってしまうということだ。

「外」で愉しむことのできる時期がかぎられているからだろうか。もちろん、里芋の旬の時季もある。一年のうちの大切な「シーズン」のために、準備も片づけも怠らない。「禁止事項」を定めれば、それを守ること(そして守られなかったときにペナルティーを科すこと)を考えがちになる。結局のところは、じぶんたちで決めた「禁止事項」にしばられて、どんどん窮屈になる。「ルール」という考えそのものを、あっけらかんと乗り越えて、芋煮は、もはや「文化」となって、まちにとけ込んでいるのだろう。

そして、この芋煮の「文化」を支えているひとつの原動力は、レシピの多様性にあるのかもしれない。山形に暮らす知人は、ふだん芋煮をつくるときには、何種類か用意するらしい。職場には、出身地のちがう同僚がいるからだという。どこまで気を遣うかはともかく、いくつもの味つけ(レシピ)を尊重する。その上で、芋煮の「正しさ」や「正統性」について語らう。SNSでは「#芋煮戦争」というハッシュタグさえあるほどで、レシピをめぐる「バトル」は続いてゆくにちがいない。だが、シーズンがくるたびに、「正しさ」について語るからこそ、コミュニケーションは絶えることがないのだ。そもそも「火種」がなければ、鍋は熱くならない。

 

https://www.instagram.com/p/BZ7vFCBAoEj/

「イモニジャナクテ カレー」が、できた! #カレーキャラバン #サードシーズン #currycaravan

 

途中で雨がぱらつくことはあったが、大きなトラブルもなく「イモニジャナクテ カレー」ができあがった。里芋入りとはいえ、芋煮じゃなくて、カレーをつくっていたので(しかもカセットコンロで)、なんだかちょっと肩身がせまいような気分になった。終始、芋煮の「文化」に驚き、感心しながら過ごした。カレーキャラバンが大いに共感し、さらに極めるべき「ゆるさ」について考える機会になった。
とにかく楽しかった。この先も、器財を携えて旅を続けると思うが、このように「きちんとしたゆるさ」がある場所に出会うことができれば、ぼくたちは、いつも以上にいきいきと過ごすことができるはずだ。そのような「キャラバンフレンドリー」な場所は、この河川敷のほかにも、きっとたくさんあるにちがいない。あまりにも楽しすぎて、このあと、ぼくも亜維子さんも、しばらくのあいだは「芋煮ロス」に苛まれながら過ごした。🍲

 

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171007_カレーキャラバン(山形編)

「ゆるさ」があれば(6)

サードシーズンのはじまり

カレーキャラバンは、ついに6年目。もともと、いつまで続けるのかを考えずにはじめた活動なのだが、このままずっと続くかもしれないし、不意に終わりになるかもしれない。この文章を書いている時点で、すでに66か所でカレーをつくった。やや波はあるものの、ほぼ月に1回のペースでいまなお続いている。これほどまでに生活の一部になってくると、当然のことながら、いろいろな出来事に遭遇する。毎日の生活(つまり、生きること)は、ハプニングの連続だからだ。
そしてぼくたちは、その一つひとつを乗り越えようとする。すでに別の記事でも書いたとおり、この5年間でモノや器財が増えた。思えば、スパイスケースや寸胴にはじまって、テーブル、テント、提灯ランプ、さらには簡易式のモバイルキッチンを自作するところまで、だんだんと大がかりになった。もちろん、器財が増えることで、活動が充実するように感じられることもたしかだ。

だが、6年目がはじまって、あらためてフットワークの大切さについて考えるようになった。やはり、カレーキャラバンの面白さは「旅」にある。上手に荷造りをして、同じ場所に長居することなく次々と現場を巡る。そのためには身軽でいること、さらに現地調達の可能性を考えておくことも重要だ。設営や撤収に余計な時間やエネルギーを奪われないようにしながら、あたらしい出会いのためにできるだけ感性を解放しておくのだ。

いくつもの場所を訪れるからこそ、出会いがある。幸いなことに、これまでの活動をとおして、「カレーキャラバンの仲間」ができた。野菜を刻んだり、鍋をかき回したり(あるいは食べるだけだったり)、カレーキャラバンという〈場所〉を一緒につくってくれる「仲間」だ。ときには、予期せぬ形で遠方まで来てくれる。とくに、昨秋かかわる機会のあった「KENPOKU ART 2016」では、毎週末というほどのハイペースだったこともあってか、強くて濃いつながりが育まれたように思う。

7月は、西千葉にある「HELLO GARDEN」でカレーをつくる予定になっていた。その前日、茨城の滝さんが東京にいるとのことだったので、さっそく「仲間」に声をかけてみた。昨秋の「同窓会」だと考えることもできるし、翌日のカレーづくりの「前夜祭」だと位置づけることもできる。銀座の「カイバル」で、カレーを食べることにした。ひさしぶりに会って7名でテーブルを囲み、あれこれとカレーキャラバンの話で盛り上がる。順番にはこばれてくる料理にいちいち声をあげ、スマホで写真を撮る。たくさん笑いながら、楽しい時間を過ごした。

https://www.instagram.com/p/BWkFfeBA786/

【2017年7月15日(土)西千葉でのカレーキャラバンの前夜。「カイバル」で「仲間」たちとカレーを食べた。


よくよく考えると、この「仲間」どうし、お互いに知らないことがたくさんある。もちろん、カレーキャラバンの現場では何度か一緒に過ごしているので、「あの時はこんなことがあった」「あんな人がいた」などと共通の話題にはこと欠かない。あっという間に時間が過ぎて、お開きになった。「じゃあまた明日」と言って別れたあと、Yoshieさんときみこさんが、じつは初対面だったということに気づいた。二人とも、国立でカレーをつくったときに来ていたので、てっきり面識があると思っていた。カレーを食べてさんざんしゃべり、帰りの地下鉄に乗るまで、違和感をおぼえることなく、ごく自然に過ごしていた。国立では、2回カレーをつくったので、それぞれ別のときにカレーキャラバンに来ていただけで、一緒ではなかったのだ。ぼくは(そして、みんなも)、すでに二人は国立で会っているものだと思い込んでいた。「仲間」のことは、たびたび話題になるので、そのつもりになっていた。

カレーキャラバンは、出かけた先で、見知らぬ人、通りすがりの人と一緒にカレーをつくる。そして、カレーをつくるのに、名刺交換も堅苦しいあいさつも必要ない。共同調理であることはまちがいないのだが、きちんと分担が決まっているわけではない。かなり働く人もいるし、それほどでもない人もいる。もとより、人によってできることはちがうし、出入りが自由なので、整然と段取りするほうが難しい。その「ゆるさ」に戸惑う人も、少なくない。ぼくたちは、そのやり方に慣れているので、二人が初対面だったということに驚きはしたものの、それほど不思議なことでもなかったのだろう。お互いに違和感を感じることなく、わずかな時間でも楽しく過ごせるなら、素晴らしいことだ。

 

「ゆるさ」はパワー

よく知らない人であったとしても、一緒に楽しく過ごすことができる。これは、カレーキャラバンの「ゆるさ」のおかげだ。『つながるカレー』にも書いたのだが、カレーは「わかりやすい」のだ。ぼくたちが、カレーをつくっていることは、見ればすぐにわかる。だから、カレーの鍋をかき回しているぼくたちを見て、「何をしているんですか」という質問は、まずありえない。理由や目的を問われると、ちょっと面倒なのだが、もっと素朴に「美味しそう」「食べたい」といったやりとりがはじまれば、もはや名前を聞くことさえも忘れてしまう。
亜維子さんもぼくも、「何者なのか」を問われることは少ないように思う。テントや幟など、小道具もそろっている。お揃いのTシャツとエプロンを身につけていれば、それなりに「業者」っぽく見えるのだろう。気楽にことばを交わしながら、カレーづくりがすすむ。

この春、カレーキャラバンは、これまでのやり方をふり返りながら、あたらしいフェーズに入った(ぼくたちは「サードシーズン」と呼んでいる)。器財も少し整理して、亜維子さんが手に入れた「アロラ鍋」を使うようになった。ここ3回ほど使っただけだが、なかなか調子がいい。中華鍋のような形をしているので、火が上手く回るようだ。これで、20個くらいのタマネギを刻んで炒める。水分が飛びやすいので、少しスピードアップにもつながる。容量は、これまでに使ってきた大きいほうの寸胴とほぼ同じだ。なにより、寸胴とちがって大きく広がっているので、みんなで鍋を囲むことができる。これは、ちょっとしたことのように思えるが、じつは無視できない。寸胴だと、せいぜい数名でのぞき込むことしかできないが、「アロラ鍋」はずっと開放的だ。ちょっと離れたところからでも、ようすが見える。 

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 【2017年7月16日(日)カレーキャラバン 西千葉編(HELLO GARDEN)】

 

このあたらしい鍋が理由ではないと思うが、「サードシーズン」では、ちょっと不思議なことが起きている。設営から食材の買い出し、カレーづくり(そして撤収まで)の流れは、いつもと変わらない。60回も続けてきた、「いつもどおり」のやり方のはずなのだが、「サードシーズン」になってから、包丁を一度も握っていないのだ(言われるまで、気づかなかった)。もちろん、ここ3回(那珂湊、西千葉、世田谷)は「仲間」がたくさん来てくれたので、つくり手が大勢いたことはまちがいない。みんな、ぼくたちのカレーづくりの流れや段取りをよく知っているので、とくに打ち合わせをする必要もない。予定の時刻を気にしながら、徐々に完成に向かった。ぼくは、遠くで指示を出していたわけでもなく(そもそも、そういう立場でかかわることはできない)、やる気がなくて傍観していたわけでもない。鍋をかき回したり、道行く人とおしゃべりをしたり、「いつもどおり」にしていたはずなのだが、包丁を握らなかった。
それほどに、たくさんの手があったということだ。主宰者でありながら包丁を手にしないことには、ちょっとした違和感や罪悪感をいだくのだが、これも「ゆるさ」の延長だと考えれば、きっとこのままでいいのだろう。ぼくたちは「旅」を計画し、どこかのまちかどに大きな鍋を置いて、コンロに火を点ける。そこから先は「ゆるさ」に身をまかせるのだ。

【2017年7月16日(日)カレーキャラバン(西千葉編)|ビデオ:最上紗也子】

 

「ゆるさ」はパワーだ。説明がいらない。瞬時に脱力させ、無防備に近づかせる。あっという間に楽しい時間が過ぎて、やがて終わりが来るのに、なんとなく忘れられなくなる。ぼくたちが標榜する「ゆるさ」は、「締めが甘い」のではなく、「きちんとゆるい」ということだ。
じつは、ぼくたちの身の回りには、大切にされている「ゆるさ」がたくさんある。たとえば、クルマのハンドルには「遊び」がある。ハンドルの操作が、すぐさまクルマに伝わると、優れた性能のように見えて、かえって疲れてしまうのだ。わずかな動きにいちいち敏感に反応するようだと、危ない場合もある。だから、適切な「遊び」があると、余裕をもってドライブできるのだ。


「ゆるい」ことは、いい加減でもテキトーでもない。ある種の寛容さをもち、あたらしい展開、予期せぬ出来事を受け入れる準備ができているということだ。「ゆるい」からこそ、「仲間」がたくさん来たときには、ぼくが包丁を握らなくてもカレーができあがるというような、魔法のようなことが起きてもかまわないのだ。ぼくたちは、5年間、カレーづくりを楽しんできただけではなかった。人びとが(ごく自然なかたちで)参加を促され、いきいきとしたコミュニケーションを「味わう」ことのできる場所には、(適度な)「ゆるさ」が必要だということ。そのことの大切さを、いろいろなハプニングに遭遇しながら、身体に取り込んできたのだ。🐫