クローブ犬は考える

The style is myself.

「ゆるさ」があれば(8)

きちんとした設備

芋煮の余韻(くわしくは、「ゆるさ」があれば(7)[link] を参照)に浸りつつ、つぎの活動をむかえた。山形に出かけてからわずか1週間後、こんどは福井でカレーをつくることになった。これまでにも何度かあったように、加藤研の「キャンプ」(フィールドワーク実習)に合流するかたちでの実施だ。実習に参加する学生から見ると、2泊3日のプログラムに組み込まれた「2日目の晩ごはん」がカレーだという位置づけになる。
下見の段階で、福井では「路上」での実施は難しいということがわかった。そして、いろいろと検討した結果、駅にほど近いところにあるキッチンを借りることになった。それは、「ガスのアンテナショップ」ともいうべき場所で、料理教室をはじめ、さまざまなイベントが実施されているレンタルスペースだ。駅前の大規模な再開発計画があるために、今年度いっぱいで閉じてしまうとのことだが、ガスを使う活動であるならば無料で利用できると聞いて、この場所を使ってみることにした。幸いなことに、予定していた日の午後は空いていたので、さっそく手続きをした。

「アンテナショップ」であるから、とにかくピカピカだ。一番奥にシンクとガス台があって、大きな調理台が設えてある。ちょっとした「料理番組」を収録するためのスタジオのようにも見える。もちろん、基本的な調理器具は、ひととおり揃っている。なんともありがたいことだ。今回は、さすがに遠いのでクルマで行くのを断念した。事前に鍋やスパイスなど、最低限必要だと思われるモノを宅急便で送り、あとは、この施設に常備されている器財でなんとかなるだろうと思った。実際に、この快適で機能的なキッチンのおかげで、カレーづくりは順調にすすんだ。調理台は広いし、火加減の調整も楽だ。

https://www.instagram.com/p/BaN8vZgABBG/

料理番組っぽい。 #カレーキャラバン #サードシーズン #currycaravan

 

ぼくたちは、通りに面したガラス戸を開け放して、少しでも「外」とのつながりをつくろうとしていた。多少はスパイスの香りが辺りに漂っていたのだろうか。何人かの人は、ちょっと足をとめた。だが、少し奥まったところで鍋を炊いているようすが見えたとしても、調理台のほうまで歩みよってくることはなかった。単純なことながら、まちの日常的な往来と離れすぎていたのだろう。
じつは、この日は(実質的には)二人でカレーをつくらなければならなかったのだが、きちんとした設備のおかげで、ほぼ予定どおりにすすんだ。そして、カレーは美味しくできあがった。多少の呼び込みもしたが、カレーを配っているということがわかると、道ゆく人もなかに入ってきた。カレーを食べるときには、いつものように、賑やかな情景が生まれ、いつものように、楽しいひとときを過ごした。

だが、何かちがう。片づけをしながら、ぼくは、ちょっとした「違和感」をおぼえていた。あとで話をしたら、どうやら亜維子さんも似たような感覚だったようだ。準備から調理、そしてみんなで一緒に食べて、片づけるところまで、一連の流れは滞りがなかった。むしろ、いつもよりすみやかに進行した。だが、カレーをつくっている最中に鍋をのぞき込まれる場面は、ほとんどなかった。手際の悪いぼくたちにちょっかいを出したり、他愛のないやりとりで手が止まったりすることはなかった。ぼくたちは、カウンター越しに(ちょっと離れたところから)視線を感じながら、ひたすらカレーづくりに集中していた。というより、集中せざるをえなかった。それは、今回のセッティングがもたらしたのではないかと思う。

 

「どちらでもない場所」

きっと、設備が立派すぎたのだ。ピカピカの施設を無料で使っておきながら、ずいぶんわがままな物言いに聞こえてしまうにちがいない。だが、この設えによって、ぼくたちは、いとも簡単にカレーを「つくる人」になってしまった。カウンター越しに向き合うのは、「食べる人」だ。日ごろから気づいていたはずのことなのだが、今回は「つくる人」と「食べる人」との境界が際立ってしまった。ぼくたちは、カウンターの内側に立ち、鍋をかき回している。スパイスの香りに誘われて、道ゆく誰かが入ってきたとしても、依然としてカウンターに隔てられている。だから、近づいても「向こう側」と「こちら側」が溶け合うことはない。これまでに、たびたび〈公・共・私〉という図式で語ってきた [link] が、じつは、カレーキャラバンの面白さは、「向こう側」と「こちら側」が曖昧になる点にある。そのことに、あらためて気づいた。わずか80センチほどの距離であっても、固く頑丈なカウンターが「あいだ」に横たわっている。その境界は、越えるのが難しい。

ほとんどの学生たちは、カレーを食べると、そそくさと帰ってしまった。実習のプログラムでは「2日目の晩ごはん」になっていたし、フィールドワークの成果をまとめる作業のことを考えて、急いで食べて宿に戻ったのだろう。「ありがとうございました」さえ言わずに帰ってしまった学生たちを見て、いささかやるせない気分になった。少しでも片づけを手伝うくらいのことは思いつかないのだろうか。
もちろん、「ありがとう」くらいはごく自然に言えるほうがいいのだが、それもカウンターの存在と無関係ではないのかもしれない。あの場所で、ぼくたちがカウンターの内側に留まっているかぎり、つき合い方は変わらない。もし、カウンターの「外」に出ていたら、往来に少しでも近づこうとしていたら、ちがった光景に出会っていたようにも思う。

ふと、梨木香歩の『ぐるりのこと』を思い出した。そう、「向こう」でも「こちら」でもない「どちらでもない場所」こそが、人びとのコミュニケーションに対する(心理的な)「構え」を解くのだ。なにより、この「ガスのアンテナショップ」をえらんだ時点で、カウンターの存在についてもっと想像力をはたらかせているべきだった。「向こう」と「こちら」の距離(距離感)が、一目でわかるようなかたちで物理的に調整されてしまうと、ぼくたちは、きちんとカレーをつくらざるをえなくなる。つまり、カレーづくりの行程を「すべて」把握しなければならない。ぼくたちが、ふだん「違和感」を抱くことなく、楽しく過ごしているのは「半端」な場所だったのだ。それは、移ろいやすい場所だ。「どちらでもない場所」でつくられたカレーは、「誰のものでもない」ということになる。だからこそ、無料で配る。「すべて」を引き受けていないのだから、値段のつけようがないのだ。

f:id:who-me:20171014175050j:plain

Video: 大橋香奈(http://yutakana.org/

 

いろいろな事情があって、今回は「ガスのアンテナショップ」でカレーをつくったが、やはりカレーキャラバンは「外」がいいのかもしれない。それがかなわない場合にも、できるかぎり人びとの往来に近づいたほうがよさそうだ。もちろん、「外」に向かうと、とたんにカレーづくりは面倒になる。ときには寒さや強風のおかげで、鍋がいっこうに熱くならないこともある。水場が遠くて、ポリタンクを持って水を汲みに行かなければならないこともあれば、陽が落ちてから、クルマのヘッドライトで辺りを照らしながら撤収することもある。だが、蛍光灯の下で無風状態で調理することは、ぼくたちが「すべて」を把握しなければならない環境へ近づくことになる。条件が整えば整うほど、ぼくたちは「生産者」のようにふるまうようになる。そのことが、行きずりの人びとを「消費者」に変えてしまう。

「すべて」を引き受けないことは、ちょっと大げさに言えば、ひとつの戦略だ。「つくる人」にも「食べる人」にもならず、「どちらでもない(どちらでもある)」立場でかかわること、かかわり続けることが、ぼくたちが標榜する場づくりの方向性だ。🐫

ぐるりのこと

ぐるりのこと