クローブ犬は考える

The style is myself.

「ゆるさ」があれば(6)

サードシーズンのはじまり

カレーキャラバンは、ついに6年目。もともと、いつまで続けるのかを考えずにはじめた活動なのだが、このままずっと続くかもしれないし、不意に終わりになるかもしれない。この文章を書いている時点で、すでに66か所でカレーをつくった。やや波はあるものの、ほぼ月に1回のペースでいまなお続いている。これほどまでに生活の一部になってくると、当然のことながら、いろいろな出来事に遭遇する。毎日の生活(つまり、生きること)は、ハプニングの連続だからだ。
そしてぼくたちは、その一つひとつを乗り越えようとする。すでに別の記事でも書いたとおり、この5年間でモノや器財が増えた。思えば、スパイスケースや寸胴にはじまって、テーブル、テント、提灯ランプ、さらには簡易式のモバイルキッチンを自作するところまで、だんだんと大がかりになった。もちろん、器財が増えることで、活動が充実するように感じられることもたしかだ。

だが、6年目がはじまって、あらためてフットワークの大切さについて考えるようになった。やはり、カレーキャラバンの面白さは「旅」にある。上手に荷造りをして、同じ場所に長居することなく次々と現場を巡る。そのためには身軽でいること、さらに現地調達の可能性を考えておくことも重要だ。設営や撤収に余計な時間やエネルギーを奪われないようにしながら、あたらしい出会いのためにできるだけ感性を解放しておくのだ。

いくつもの場所を訪れるからこそ、出会いがある。幸いなことに、これまでの活動をとおして、「カレーキャラバンの仲間」ができた。野菜を刻んだり、鍋をかき回したり(あるいは食べるだけだったり)、カレーキャラバンという〈場所〉を一緒につくってくれる「仲間」だ。ときには、予期せぬ形で遠方まで来てくれる。とくに、昨秋かかわる機会のあった「KENPOKU ART 2016」では、毎週末というほどのハイペースだったこともあってか、強くて濃いつながりが育まれたように思う。

7月は、西千葉にある「HELLO GARDEN」でカレーをつくる予定になっていた。その前日、茨城の滝さんが東京にいるとのことだったので、さっそく「仲間」に声をかけてみた。昨秋の「同窓会」だと考えることもできるし、翌日のカレーづくりの「前夜祭」だと位置づけることもできる。銀座の「カイバル」で、カレーを食べることにした。ひさしぶりに会って7名でテーブルを囲み、あれこれとカレーキャラバンの話で盛り上がる。順番にはこばれてくる料理にいちいち声をあげ、スマホで写真を撮る。たくさん笑いながら、楽しい時間を過ごした。

f:id:who-me:20210224234128j:plain【2017年7月15日(土)西千葉でのカレーキャラバンの前夜。「カイバル」で「仲間」たちとカレーを食べた。

よくよく考えると、この「仲間」どうし、お互いに知らないことがたくさんある。もちろん、カレーキャラバンの現場では何度か一緒に過ごしているので、「あの時はこんなことがあった」「あんな人がいた」などと共通の話題にはこと欠かない。あっという間に時間が過ぎて、お開きになった。「じゃあまた明日」と言って別れたあと、Yoshieさんときみこさんが、じつは初対面だったということに気づいた。二人とも、国立でカレーをつくったときに来ていたので、てっきり面識があると思っていた。カレーを食べてさんざんしゃべり、帰りの地下鉄に乗るまで、違和感をおぼえることなく、ごく自然に過ごしていた。国立では、2回カレーをつくったので、それぞれ別のときにカレーキャラバンに来ていただけで、一緒ではなかったのだ。ぼくは(そして、みんなも)、すでに二人は国立で会っているものだと思い込んでいた。「仲間」のことは、たびたび話題になるので、そのつもりになっていた。

カレーキャラバンは、出かけた先で、見知らぬ人、通りすがりの人と一緒にカレーをつくる。そして、カレーをつくるのに、名刺交換も堅苦しいあいさつも必要ない。共同調理であることはまちがいないのだが、きちんと分担が決まっているわけではない。かなり働く人もいるし、それほどでもない人もいる。もとより、人によってできることはちがうし、出入りが自由なので、整然と段取りするほうが難しい。その「ゆるさ」に戸惑う人も、少なくない。ぼくたちは、そのやり方に慣れているので、二人が初対面だったということに驚きはしたものの、それほど不思議なことでもなかったのだろう。お互いに違和感を感じることなく、わずかな時間でも楽しく過ごせるなら、素晴らしいことだ。

 

「ゆるさ」はパワー

よく知らない人であったとしても、一緒に楽しく過ごすことができる。これは、カレーキャラバンの「ゆるさ」のおかげだ。『つながるカレー』にも書いたのだが、カレーは「わかりやすい」のだ。ぼくたちが、カレーをつくっていることは、見ればすぐにわかる。だから、カレーの鍋をかき回しているぼくたちを見て、「何をしているんですか」という質問は、まずありえない。理由や目的を問われると、ちょっと面倒なのだが、もっと素朴に「美味しそう」「食べたい」といったやりとりがはじまれば、もはや名前を聞くことさえも忘れてしまう。
亜維子さんもぼくも、「何者なのか」を問われることは少ないように思う。テントや幟など、小道具もそろっている。お揃いのTシャツとエプロンを身につけていれば、それなりに「業者」っぽく見えるのだろう。気楽にことばを交わしながら、カレーづくりがすすむ。

この春、カレーキャラバンは、これまでのやり方をふり返りながら、あたらしいフェーズに入った(ぼくたちは「サードシーズン」と呼んでいる)。器財も少し整理して、亜維子さんが手に入れた「アロラ鍋」を使うようになった。ここ3回ほど使っただけだが、なかなか調子がいい。中華鍋のような形をしているので、火が上手く回るようだ。これで、20個くらいのタマネギを刻んで炒める。水分が飛びやすいので、少しスピードアップにもつながる。容量は、これまでに使ってきた大きいほうの寸胴とほぼ同じだ。なにより、寸胴とちがって大きく広がっているので、みんなで鍋を囲むことができる。これは、ちょっとしたことのように思えるが、じつは無視できない。寸胴だと、せいぜい数名でのぞき込むことしかできないが、「アロラ鍋」はずっと開放的だ。ちょっと離れたところからでも、ようすが見える。 

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 【2017年7月16日(日)カレーキャラバン 西千葉編(HELLO GARDEN)】

 このあたらしい鍋が理由ではないと思うが、「サードシーズン」では、ちょっと不思議なことが起きている。設営から食材の買い出し、カレーづくり(そして撤収まで)の流れは、いつもと変わらない。60回も続けてきた、「いつもどおり」のやり方のはずなのだが、「サードシーズン」になってから、包丁を一度も握っていないのだ(言われるまで、気づかなかった)。もちろん、ここ3回(那珂湊、西千葉、世田谷)は「仲間」がたくさん来てくれたので、つくり手が大勢いたことはまちがいない。みんな、ぼくたちのカレーづくりの流れや段取りをよく知っているので、とくに打ち合わせをする必要もない。予定の時刻を気にしながら、徐々に完成に向かった。ぼくは、遠くで指示を出していたわけでもなく(そもそも、そういう立場でかかわることはできない)、やる気がなくて傍観していたわけでもない。鍋をかき回したり、道行く人とおしゃべりをしたり、「いつもどおり」にしていたはずなのだが、包丁を握らなかった。
それほどに、たくさんの手があったということだ。主宰者でありながら包丁を手にしないことには、ちょっとした違和感や罪悪感をいだくのだが、これも「ゆるさ」の延長だと考えれば、きっとこのままでいいのだろう。ぼくたちは「旅」を計画し、どこかのまちかどに大きな鍋を置いて、コンロに火を点ける。そこから先は「ゆるさ」に身をまかせるのだ。

【2017年7月16日(日)カレーキャラバン(西千葉編)|ビデオ:最上紗也子】

 「ゆるさ」はパワーだ。説明がいらない。瞬時に脱力させ、無防備に近づかせる。あっという間に楽しい時間が過ぎて、やがて終わりが来るのに、なんとなく忘れられなくなる。ぼくたちが標榜する「ゆるさ」は、「締めが甘い」のではなく、「きちんとゆるい」ということだ。
じつは、ぼくたちの身の回りには、大切にされている「ゆるさ」がたくさんある。たとえば、クルマのハンドルには「遊び」がある。ハンドルの操作が、すぐさまクルマに伝わると、優れた性能のように見えて、かえって疲れてしまうのだ。わずかな動きにいちいち敏感に反応するようだと、危ない場合もある。だから、適切な「遊び」があると、余裕をもってドライブできるのだ。

「ゆるい」ことは、いい加減でもテキトーでもない。ある種の寛容さをもち、あたらしい展開、予期せぬ出来事を受け入れる準備ができているということだ。「ゆるい」からこそ、「仲間」がたくさん来たときには、ぼくが包丁を握らなくてもカレーができあがるというような、魔法のようなことが起きてもかまわないのだ。ぼくたちは、5年間、カレーづくりを楽しんできただけではなかった。人びとが(ごく自然なかたちで)参加を促され、いきいきとしたコミュニケーションを「味わう」ことのできる場所には、(適度な)「ゆるさ」が必要だということ。そのことの大切さを、いろいろなハプニングに遭遇しながら、身体に取り込んできたのだ。🐫