クローブ犬は考える

The style is myself.

in KENPOKU 05: レインボウ☆トリゴボウ☆明日へのキボウカレー

2016年11月6日(日)|虹のひろば(茨城県高萩市)

無事に、60回目のカレーづくりを終えた翌日。県北では5回目。よく晴れてはいたものの、冷たい風のなか、高萩駅前にある「虹のひろば」にテントを張った。

KENPOKU ART 2016(茨城県北芸術祭)でのプログラムのために、毎週のように茨城に足をはこび、すでに5回目なのに、じつは「芸術祭」のほうは、ほとんど観ていない。初回の常陸多賀でのカレーづくりは、ちょうど展示会場の目の前だったので、作品を目にすることができたが、たんに展示されているのを「見た」という程度で、ゆっくりと作品を鑑賞することはできなかった。もちろん、KENPOKUに行く理由がちがうからだ。ぼくたちは、ちがう目的で出かけている。

このことは、よく木村さんたちと話題になる。今回のKENPOKUにかぎらず、全国各地を回っているなかで、いわゆる「観光名所」と呼ばれるような場所に行くことはほとんどない。たとえば鳥取に行ったときには、砂丘に出かけることさえしなかった。もちろん、〈鳥取=砂丘〉ではないのだが、それでも、せっかくだから行っておきたいという気持ちにはなる。ほんの少しでも時間をやりくりすれば、「観光」もできるように思える。いっぽう、食材を買うために、道の駅や産直の店、地元のスーパーにはかならず出かける。果物や野菜の値段のこと、特産品やおみやげ、そして買いものに来ている人びとの活力にじかに触れることができるので、まちのことがわかってくる。「食」に近づくと、人びとの生活を身体で感じることができる。食材を手に入れたら、あとは、日が暮れるまで(カレーの鍋が空になるまで)ずっとテントの下で過ごす。

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カレーキャラバンの活動は、「留まる」ことによって成り立っている。つまり、ガイドブックを片手にまちを歩き、「観光名所」を巡るのとはちがう。ぼくたちは移動することなく、じっと待っているのだ。そして、待っている時間は、退屈でも苦痛でもない。野菜を刻んだり、肉を煮込んだり、やるべきことはたくさんある。そして、「留まる」からこそ見えてくる風景があることに、あらためて気づく。ぼくたちは、まるで定点観測のカメラ(あるいは監視カメラ?)のように、テントのなかから、まちの移ろいを観察することができるのだ。これは、ちょっと特別な「立ち位置」なのだと思う。移動しないことによって、ぼくたち以外のモノやことの移動や変化が見えるようになる。あたりまえのことのようだが、気づいたとたんに、カレーづくりがさらに面白くなった。

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ぼくたちは、数年間、この「留まる」やり方を続けてきた。木村さんは、これを「あたらしい旅」のスタイルだと言った。たしかに、そうだ。ぼくたちは、ふだん旅に出かけると、できるだけさまざまな場所(名所旧跡の類い)を訪れ、老舗や名店に出かけて食事をして、おみやげを買って帰ろうとする。ぼくたちの「あたらしい旅」は、いちど場所を決めたら、ずっとそこに「留まる」というものだ。幸いなことに、この方法で時間を過ごしていると、いつでもたくさんの人に出会うことができる。鍋から立ち上るスパイスの香りのおかげで、気負うことなく会話がはじまる。

ガイドブックを片手に旅をするとき、ぼくたちは、いったい何人の人とことばを交わすことができるだろうか。移動することで成り立つ旅は、もしかすると、ガイドブックに載っている内容を、現地で「確認」しているだけなのかもしれない。ずいぶん地味に見えるかもしれないが、「あたらしい旅」には、思いがけない出会いも、他愛のないやりとりもある。そして、再会の約束もある。🍛

 

◉ビデオ|撮影・編集:國吉萌乃