クローブ犬は考える

The style is myself.

階段に座って、食べよう。

「ふつうの暮らしを調査して、どこが面白いんだ」と、彼は話しかけてきた。どうやら、ぼくたちが人びとの暮らしを調査しているのが気に入らないのだ。「べつに取り立ててめずらしい生活をしているわけじゃないよ」と言う。偏屈な男につかまってしまった、と思った。気に入らないというより、「解せない」ということらしい。

団地が調査対象なら、たとえば「孤独死」や「空き家」の問題などを取り扱ったほうがいい。「ふつうの暮らし」などと呑気なことを言って、何の役に立つのかわからない。

いや、そのような「問題」は、すでに多くの人が取り扱っているはずです。だからこそ、日常生活に目を向けたいと説明しても、一向に通じない。さまざまな「問題」に向き合う前に(向き合うために)、まずは現場のようすを直接感じることが大切なのだ。ひとしきりしゃべったので、これでようやく解放されると思っていたら、急に話題が変わった。

「3時に来てくださいと言われたから来たんだけど、まだ?」

ぼくたちは、その日、広場でカレーをつくっていた。3時ごろから配る予定で、いよいよこれから、というタイミングだった。もう間もなくです、と伝えたのだが、こんどは時間になっても配りはじめないことに苛立っている。そして、ふたたび、ぼくたちのフィールドワークは「わからない」と言い続け、そのうち「じゃあ、これはドキュメンタリーのようなものかい」と言った。ある程度の時間をかけて現場に通い、詳細な記述を試みるという点では、たしかに「ドキュメンタリーのようなもの」だ。「お年寄りの一人暮らし」や「マイホームの夢」といったテーマになるかどうかは、わからない。

カレーの前に行列ができはじめたのを見て、彼も列の後方に向かった。この偏屈な男のおかげで、ぼくはカレーの完成に立ち会うことも、そのようすを写真に撮ることもできなかった。

団地の広場は開放的だ。一部が階段状になっていて、そのすぐそばでカレーをつくった。段差はあまりないが、器財をセッティングするとき、階段に腰を下ろして食べるようすを想い浮かべていた。カレーを受け取った人は、ぼくたちの期待どおり、階段に座ってカレーを食べはじめた。イベントで使われることはあると思うが、多くの場合、この階段は通路でしかない。駅とのあいだにあって、ふだんは通り過ぎるだけの広場が、ほんのわずかな時間、人びとが集い、(カレーを食べながら)語らう場所に変わった。そのことが、愉快だった。階段そのものにはいっさい手を加えていないのに、立ち上るスパイスの香りが人びとを集めて、あたらしい広場の情景をつくった。階段に座って眺める広場は、いつもとずいぶんちがっていたはずだ。

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男は、階段の端のほうでカレーを食べていた。みんなが座って食べている、広場の風景の一部になっていた。ふと、男は孤独なのだと思った。目の前で「わからない」を連呼されていたときには、そんなことを感じることもなく、ちょっと面倒な存在という印象だった。その彼が、黙って一人でカレーを食べている。彼が孤独に見えたのは、まさに、彼じしんが「孤独死」や「空き家」といったことばをぼくに投げかけたからだ。

彼は、誰かと話をしたかったのではないか。日曜日の午後、ぼくたちが階下の広場で「騒ぎ」を起こさなければ、ずっと一人で部屋にこもっていたのかもしれない。隣に行って一緒にカレーを食べようか、と思った。だがきっと、「オレはべつに寂しくない」「一人にしておいてくれ」と言われるにちがいない。ぼくは、遠目に彼のことを見ていた。カレーは、美味しかったのだろうか。

「ふつう」を知ることは難しい。そして、「ふつう」に触れることは面白い。じつは、人びとの個性に近づけば近づくほど、「ふつう」として語ることなどとうてい無理だということ、どの人の暮らしもユニークで「ふつうではない」ことに気づくのだ。