クローブ犬は考える

The style is myself.

つながるカレー(6)

「編み編む編まれ編むとき編めば」

先日、荷物の整理をしていたら、段ボール箱から、ぼくが編んだ「ループタイ」が出て きた。おそらく、誰もが、一目で無用だと思うようなモノだ。現に、数年間、段ボール箱で眠っていたのだ。とはいえ、あらためてその「ループタイ」を手に取って眺めていると、いろいろなことを思い出す。

数年前、「墨東大学(http://bokudai.net/)」で提供する講座を考えていたとき、『アクロス』の高野さんに、伊藤さちさんを紹介してもらった。彼女は、「homam(ほまむ)」という「縫う&編むレーベル」を主宰しながら 「手芸や縫うことを媒介に、関係を紡ぐ場としてのワークショップ」を実践している作家だ [1]。そんな彼女が企画してくれたのは、「編み編む編まれ編むとき編めば」というタイトルのワークショップだった。

このワークショップ は、2011年の1月下旬から2月にかけて3回おこなわれた。編み物の世界には疎いものの、魅惑的なタイトルだったので、ぼくも参加してみた。教室として使われたのは、あの頃「墨東大学」プロジェクトで使っていた商店街のなかの空き店舗だ。暖房器具は、ないに等しい。シャッターを開けると、冷たい風が吹き込んできた。伊藤さんのワークショップは、たんに毛糸と編み棒で何かを編むというものではなかった。まずは、近所を歩いて何か「編める(編み込める)もの」を拾ってくるという課題からはじまった。

カラフルな毛糸の玉や刺繍糸の類いがたくさん用意されていたが、それらに編み込むための素材は、現地で調達するということらしい。「何でもいい」とのことだったので、ぼくは、捨てられていたビニール傘と靴紐とレジ袋を拾って教室に戻った。他の参加者も、自転車のカゴとか針金のようなものを持ち帰っていたように思う。

そして、つぎは、その拾ってきたものを素材として取り入れながら 「編み物」をつくる。最初はあれこれおしゃべりしていたのに、ほどなく、みんな黙って、それぞれの想いで編むことに専念しはじめた。ぼくは、ビニール傘やレジ袋を短冊のように切ってつなぎ、細い紐をつくった。「編み物」と呼べるかどうかわからないが、毛糸と一緒に三つ編みのようにしながら「ループタイ」をつくった。他に5、6人は参加者がいたと思うが、みんな口数が少なくなり、それぞれの作業に没入していた。こういう雰囲気は、じつは嫌いではない。ことばを交わさなくても、そして、ひとり一人はそれぞれの作業に向き合っていながらも、不思議な一体感が生まれるからだ。

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 【写真】2011年1月22日:「墨東大学」京島校舎にて

商店街の空き店舗で、私たちが黙々と「編み物」に勤しんでいる光景は、やはり目立つのだろう。ふだんは見ることのない光景だということもあってか、ときどき、道ゆく人が声をかけてくる。京島の商店街にはお年寄りの姿が多い。世間話をしたり、編み方のアドバイスをしたり、なかには、家からじぶんの編み棒を持って、戻ってくる人もいた。伊藤さんのねらいどおりだったのかはわからないが、「編み編む編まれ編むとき編めば」は、私たちにある種の没入感をあたえながらも、参加者だけで閉じてしまうことがない場所になっていた。

「静かな場づくり」

このワー クショップは、事前に申し込んで参加した私たちだけではなく、道ゆく人たちにも開かれていた。それでも、積極的に呼び込みをして参加を求めることはせず、 「誰でもどうぞ」といった控えめなメッセージが書かれた紙が貼られているだけだった。伊藤さんのワークショップは、とても「静かな場づくり」なのだと思う。つまりそれは、のんびりと穏やかに「待つ」ことによって成り立っている場所だ。

もちろん、誰かに声をかけてもらえることは嬉しい。家まで編み棒を取りに帰るような人がいれば、なおさらのことだ。だが、それを必要以上には期待しない。だからこそ、足を留めたり声をかけたりする人が現れない場合でも、適度な没入感をもたらしてくれるような「編み物」が必要になる。極端な話、一人だけでも(あるいは少数の仲間だけでも)心配はない。じぶんのペースで、手しごとに勤しんでいれば、それでいいからだ。「待つ」ことは、決して辛いことではない。というより、待っていることを意識せずに済むような場所をつくることが大切なのだ。伊藤さんのワークショップの方法は、とても大切なことを教えてくれているような気がした。

「カレーキャラバン」が、「墨東大学」プロジェクトのなかから生まれたことについては、すでに述べた。あらためてふり返ってみると、「墨東大学」での試みの多くが、いまの活動につながっていることに気づく。「カレーキャラバン」は、「編み編む編まれ編むとき編めば」とくらべると、とうてい「静か」には見えないだろう。まちかどにキャンプ用のテーブルを並べて、鍋を炊く。辺りにスパイスの香りが漂うのだから、それなりに目立つ。貼り紙をして、のんびりと「編み物」をしているのとはずいぶんちがう。だが、「カレーキャラバン」も、本質的には「待つ」ことによって成り立っている「場づくり」の方法だ。

私たちがまちかどで仕込んでいるカレーも、ツッコミやダメ出しを期待してはいるが、気に留める人がいなくても、ひたすら鍋をかき回していればいい。それだけで、じゅう ぶんに愉しいからだ。「待つ」ことの意味をあらためて考えながら、カレーをつくる。じっくりと煮込めば(さらに、ひと晩寝かせておけば)、味は格段によくなる。ゆっくりと待っていればこそ、声をかけられたときの場面は、鮮やかに記憶に刻まれる。

もうひとつ、「カレーキャラバン」が、伊藤さんのワークショップの方法と似ているところがあるとすれば、それは、出かけた先で調達した素材を取り入れるという点だ。近所で靴紐や針金を拾ったのとおなじように、訪れたまちの市場に出かけて食材を買う。そして、毛糸の玉を眺めながら「編み物」に熱中したように、鍋を囲みながらスパイスを調合する。静かに、 声をかけられるのを待つ。その先は、話題に困ることはない。鍋のなかには、すでに、そのまちのエッセンスがとけ込んでいるからだ。「カレーキャラバン」 は、あたらしい出会いや発見を想い浮かべながら、「待つための場所」なのかもしれない。
[1] homam http://homamoh.com/