クローブ犬は考える

The style is myself.

つながるカレー(3)

石のスープ

「小鍋会」のホームページを遡ってみると、数年前の「復活宣言」という記事の最後に『しあわせの石のスープ』という絵本の表紙が載っている [1]。これを見て、思い出した。

「石のスープ」は、もともとはポルトガルに伝わる民話だ。聞けば、「あぁ、知ってる」と思う人も少なくないはずだ。後述するように、この話にはいくつかのバリエーションがあるが、大まかにストーリーを紹介しておこう。

旅人たちが、ある村にたどり着いて、村の人びとに食事を乞うと断られてしまう。そこで旅人たちは、スープをつくることのできる不思議な石を持っていると言って、鍋と水を貸してもらう。食事はダメでも、鍋と水だけなら断られることはない。鍋で湯を沸かし、そのなかに石を入れて調理をはじめる。村の人びとは、様子をうかがう…。

旅人たちは、石でつくるスープは「じつは、野菜があればもっと美味しくなる」「肉があれば」「塩が少しあれば」などと言いながら、けっきょく鍋や水ばかりでなく、いろいろな食材や調味料も村人たちにもらいながら、美味しいスープを仕上げる。

「石のスープ」の話は、いろいろな意味で示唆に富んでいる。旅人たちが、石ころ(これは、道にころがっているような石である)を使って、最終的には、村の人びとから具材を集めてスープをつくるのであるから、知恵と工夫さえあれば、石ころでも大きな価値を生むということだ。「石のスープ」は、人びとを巻き込むための「呼び水」の比喩として使われることもあるらしい。少し調べてみると、「石のスープ」の本が何種類かあった。

たとえば、お腹をすかせた 兵士たちが主人公のバージョンがある。三人の兵士たちは、おなじように石からはじめて、最後にはたくさんの具材が入ったスープをつくりあげる。村人たちとの楽しい宴のあとに、暖かなベッドで眠り、翌朝ふたたび旅路につくというものだ。「なぁに、ちょいと あたまを つかえば いいのです」という台詞とともに話が終わる。悪知恵をつかう、いささか狡猾な雰囲気だ。

オオカミが主人公になると、もう少しストーリー展開が変わる。オオカミは、めんど りの家を訪ねて「石のスープ」をつくりはじめる。オオカミは、見るからに、めんどりを鍋に放り込みたいという表情なのだが、つぎつぎと(野菜などの具材をもった)動物たちが手伝いにやって来る。やがて美味しいスープができあがり、動物たちと一緒に食べると、オオカミは静かに去って行く。したたかな動物たちが結束して、危険な「よそ者」を撃退するということだろうか。

石ではなく「釘のスープ」という話もある。ストーリーは、石が釘になっているだけで、ほとんど変わらない。最初は訝しげに思っていた家人も、スープをつくることのできる不思議な釘に関心をよせ、やがてはいろいろな食材を提供して、 スープづくりを手伝うことになる。そして翌朝には、お礼として、旅人に銀貨を一枚渡すのだ。これは、考えようによっては上等な詐欺師の話にも見える。

 

鍋のある風景

『しあわせの石のスープ』で旅をしているのは、僧侶たちである。雨戸や扉を閉ざしてひっそりとしている村で、石の入った鍋を炊いていると、少しずつ村の人びとが集まって来る。警戒しながら、窓越しに「石のスープ」づくりを見ていた人びとが、広場へと足をはこぶ。スープの鍋によって、いくつもの窓や扉が開く。それぞれが持ち寄ったたくさんの具が鍋で出会い、スープの味を決める。そしてスープができあがると、みんなで食べるのだ。「みんなで分かち合えば、幸せになる」というメッセージだ。

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このように、「石のスープ」は、話によって細かな展開や主人公たちの性格づけが少しずつことなる。だが私が見たかぎり、すべての話に、みんなで食べる場面が描かれている。みんなで大きなテーブルを囲みながら、わいわいと賑やかな時間が流れる。それは、「小鍋会」や「カレーキャラバン」によってつくられる情景そのものだ。味はもちろんだが、鍋を囲んで語らうとき、大きな鍋に入ったカレーを取り分けるときの気分は格別なのだ。というより、その情景が味を引き立てる。

たしかに「ちょいと あたまを つかえば」人びとを巻き込んで、あたらしい価値を生み出すことができる。アイデアしだいなのだ。無一文であっても、知恵と工夫を動員すればなんとかなることもある。しかしそれは、他のみんなを出し抜いたり、一方的に(他のみんなから)何かを奪ったりするものであっては困る。つまり大切なのは、ひとつの鍋でつくられた味を、私たちが分かち合うときの態度だ。「小鍋会」に参加し、何冊かの絵本のページを繰りながら、「カレーキャラバン」がつくる風景について、あれこれ考えるようになった。

私たちの態度は、はっきりしている。それは、ひとり一人の 「供出する精神」によってつくられる豊かな時間を、心から尊ぶということだ。みんなが、等しく貢献する必要はない。ある人は肉を、ある人は野菜を、あるいはスパイスを差し出す。食材がなければ、鍋の世話をしたり、テーブルのセッティングを手伝ったりすればいい。楽しい話を聞かせてくれるだけでも、じゅうぶんなのだ。ひとり一人が「何か」を自発的に差し出し、それがひとつに溶け合う。大きな鍋でつくるカレーは、みんなのものだ。

私たちは、カレーをつくることができる不思議な「石」を持っているわけではない。だが、まちかどで鍋を炊き、カレーづくりをはじめるだけで、人びととのあたらしい「接点」 ができることを知っている(むしろ「知ってしまった」と表現するほうが正しいかもしれない)。そして、その「接点」に居合わせることは、私たちにとって特別な意味を持つのである。

 

[1] 小鍋会復活宣言(2010) http://d.hatena.ne.jp/konabekai/20100302/1267497036